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2019年06月25日10:00

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三年前のブログから

歳のせいか物忘れがひどい。三年前に「東アジアの王権と思想」という本を読んだらしいのだが、読んだということをすっかり忘れている。おそらく私には難しかったのだろう。重要なことを再度メモし記憶しておきたい。

1.幕府
 征夷大将軍の政権を「幕府」と呼ぶのは今日では当然とされているが、幕府という言葉は寛政のころ以前にはほとんど使用されなかった。後期水戸学で意識的に使用されたものが一挙に広まって、江戸末期に流行語のようになったものらしい。つまり、源頼朝も足利尊氏も徳川家康も、自ら『幕府』を開いたという意識はしていなかっただろうということである。

2.朝廷
 江戸時代には、公儀すなわち我々が現在『幕府』と呼んでいるところのものを「朝廷」と呼ぶこともあったようである。現に天下を統治している君主の政庁を「朝廷」と呼ぶのは自然であったという。現在われわれが言うところの「朝廷」は江戸時代においては「禁裏」「禁中」と呼ぶのが相応しいという。

3.天皇
 13世紀初期から18世紀末までの日本には、ある意味で、天皇は存在しない。

≪順徳天皇(在位1210年-1221年)以来、光格天皇(在位1791年-1817年)で諡号が復活するまで、「天皇」の号は生前も死後も正式には用いられなかった。例えば後水尾天皇は没後は「後水尾院」と呼ばれ、これらを「後水尾天皇」とすべて置き換えたのは明治維新後のことである≫(ウィキペディアより)

したがって、情報を得る手段がなかった江戸の庶民は、天皇という言葉も意味も知らなかっただろうと考えられる。

4.藩
 「藩」は江戸時代においては公式の用語ではなく、明治二年の版籍奉還からその二年後の廃藩置県までの間、公式名称であったに過ぎない。

≪藩という呼称は、江戸時代には公的な制度名ではなかったためこれを用いる者は一部に限られ、元禄年間以降に散見される程度だった(新井白石の『藩翰譜』、『徳川実紀』等)。明治時代に初めて公称となり、一般に広く使用されるようになった。
元々「藩」という語は、古代中国で天子である周の王によってある国に封建された諸侯の支配領域を指し、江戸時代の儒学者がこれになぞらえて、徳川将軍家に服属し将軍によって領地を与えられた(と観念された)大名を「諸侯」、その領国を「藩」と呼んだことに由来する。あくまで江戸時代には「藩」の語は儒学文献上の別称であって、公式の制度上は藩と称されたことは無い。≫(ウィキペディアより)

時代劇などでは、セリフの中に「○○藩」というのがよく出てくるが、時代考証からするとこれは変なのである。儒学者でもない一般人が「藩」という言葉を使えば衒学的ニュアンスを帯びてくる。例えば、「紀州藩」ではなく「紀州徳川家」とするのが妥当ということである。

しかし、どうしてこのようなことを私は今まで知らなかったのだろうか。私の受けてきた日本史教育はどう見ても皇国史観的にゆがめられているとしか言いようがないように思える。早急に日本史の教科書を改訂するべきではなかろうか。
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