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2019年02月21日17:20

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疑似問題と無記について

誰でも一度は、「私は一体、なぜ今ここにいるのだろう?」という考えに取りつかれたことがあるのではないだろうか? 「なぜ、私は私なのだろう?」とか「世界はなぜあるのだろう?」とか「なぜ世界はこのようになっているのだろう?」などなど、これらはすべて「哲学的問題」であるということになっている。

なぜそれが哲学の問題であるのかと言うと、それは物理学や数学とか地理学などという学問で扱う分野のどこにも属さないからだろう。特定の分野に属さないテーマについて考える学問は哲学しかないからである。だからそれは哲学の問題だというのは妥当だとしても、はたしてそれらは考えてわかる問題か?ということが問題である。哲学はもうとっくにそれらの問題に答えるのは不可能であると結論付けているように、私には思える。

ものごとについて『考える』とか『分かる』とかいうのは、「諸事実とそれらの関係性」がどういうふうになっているかについてのことでしかない。つまり、われらは現にあるものを受動的に観察し分析しているに過ぎないのである。そこから一歩踏み出して、「なぜそもそもそれらの諸事実があるのか?」と問うことはまた別のことであり、我々にはできないのである。

「テーブルの上になぜ大福があるのか?」という問いと「世界はなぜあるのか?」という問いは、文法的には大した違いはないかも知れないが、全然別物である。前者には「妻が私のためのおやつを用意してくれていた」というふうに、私や妻あるいはおやつという生活習慣という事実と関係性によって説明できるが、後者の方は世界があるというそもそもの究極的な原因を問うている為、それに先行する事実というものが存在しないので関係性も何もないのである。

「なぜ空は青いのか?」という問いに対して、私達は光の波長や視神経の仕組みという様々な事実と関係性について語ることができる。つまり、「波長がxxxxの光が視神経を刺激すると私達にはそれが青に見える」ということがわかる。しかし、「波長がxxxxの光が視神経を刺激すると、なぜ私達にはそれが青に見えるのか?」という究極の問いに答えることは決してできない。

おそらく、私達は考える順序を間違えているのである。世界があるということ、空が青く見えるということ、それらは所与である。原初的事実に先行する原因または理由というものはない。世界があるという事実、空が青く見えるという事実、それらの事実というものがあって関係性というものも見えてくるのであって、その逆ではない。私達が受動的に見出だした関係性に依って、原初的事実を説明しようという発想が実は転倒している。私たちが最初に「これらは哲学的問題である」としたものは実は問題として成立しているかどうかは疑わしいのである。

このことを史上最も早く見抜いたのがお釈迦さまである。釈尊は形而上の問題にとらわれることを善しとされなかった、それが「無記」ということである。我々はともすれば疑似問題にとらわれて実存的不安におびえることもある。あり得る筈のない理由や根拠を問い求め執着することを無明と言うのである。
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