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2018年11月20日07:26

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化粧

 基本的に化粧は女のもので、男は大体化粧をしない、と私は思い込んでいましたが、髪はとかすしヒゲは剃っています。あら、これは化粧の一種ですよね。私はどうしてこんなことをしているのでしょう?

【ただいま読書中】『男はなぜ化粧をしたがるのか』前田和夫 著、 集英社(集英社新書0524B)、2009年、680円(税別)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/408720524X/ref=as_li_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=408720524X&linkCode=as2&tag=m0kada-22&linkId=4be3de08fa7d1800bc18cc121f931fab
 「化粧は女のもの」が日本の“常識"になっています。しかし古代日本では男は女以上に化粧をしていました。平安時代の貴族は、眉を剃りお歯黒をつけました。江戸時代の湯屋の男湯には脱毛用の「毛きり石」が置いてあり、お肌磨きの糠袋を持参する若者が多くいました。実は上記の“常識"は明治以降のことのようです。もっとも昭和8年(満州事変の2年後、日本が国際連盟を脱退した年)の雑誌「美髪」で「リーゼント」が紹介され、そのための整髪料「丹頂ポマード」のモデルは松岡洋右(国際連盟脱退の首席全権)だったそうです。もっとその6年後に政府は「やめてくださいリーゼント」の標語を打ち出すのですが。
 古代社会では、顔を含む体を赤く塗る「赤化粧」が世界各地で見られます。もちろん日本でも。服を着るようになると塗られるのは顔だけになり、男の埴輪にも顔の赤化粧が多く施されています。大和政権の成立と共に男のヘアスタイルも「結髪(後ろで束ねて頭に布を巻く『魏志倭人伝』)」から「みずら(両脇に垂らして耳のあたりで輪状に編む。聖徳太子の絵などでおなじみ)」に変わりました。顔面の入れ墨も、大和朝廷は100年以上かけてゆっくり禁止の方向に持って行きました。そういえば『古事記』の神武天皇の所にも「顔面の入れ墨」が登場しましたっけ。
 菅原道真は「遣唐使廃止」を具申し、その結果日本は「文化的鎖国状態」となり「国風文化」が栄えました。その結果と言っていいかな、奈良時代の上流階級の女性の化粧(眉を抜き、白粉を顔面にぺったり塗ってその上から眉を描く。さらに口紅とお歯黒も)を平安時代の公家も取り入れます。白と紅と黒のコントラスト……さらに眉は自然の位置より高めで顔が大きく見えます。軒が深く薄暗い寝殿造りの屋内では、けっこう見栄えが良かったことでしょう。女性の化粧は大陸から輸入されたものですが、それを男が真似したこと、これは日本オリジナルです。さらに武士にも化粧は受け継がれます。『平家物語』でも平氏の武将は化粧をしていましたね。源氏はすっぴんでしたが。
 江戸時代中期から町人(男)も化粧をするようになり、たとえば「かったい眉(毛を抜いて薄くしたもの)」で「粋」を競いました。湯屋のことはもう書きました。
 それががらっと変わったのは明治時代。明治天皇は京都にいるときには「公家の恰好」でしたが、当然化粧をしていました。それが断髪・洋装となり「御真影」を撮影する頃には「すっぴん」になります(実際には「御真影」は「精密な肖像画を撮影したもの」なので、現実の顔がどの程度メークをしていたのかはわかりませんが)。
 「男らしさ」が求められた戦国時代や明治時代にはヒゲが重視されていますが、平和な時代にはむしろ嫌われています。ヘアスタイルにも、「その時代」を写した変遷があります。
 本書の最後あたりに「男女の化粧の“距離"の時代変遷」が表にまとめられていますが、これはなかなか示唆的です。「歴史」を化粧で分析すると、ものすごくシンプルに見えるものがあるのです。“軽い本"かな、と思いながら手に取りましたが、けっこう深い内容がみつかりました。得をした気分です。


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