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2018年09月29日08:50

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ウィトゲンシュタインは存在論を語らない

禅宗は「不立文字」を標榜しているが、図書館の仏教コーナーでは禅関係の書物が他宗派を圧倒していると言ってもよい。皮肉だが、語りすぎるくらい語っているのが禅宗である。しかし、それは語れないからこそ語るという側面もあって、決して哲学全般について語っているというようなわけではない。「『白い』という性質は存在するのか?」というようなことについて議論するというようなことはあり得ない。禅は現前する事実をそのまま受け止めて、分析するものではないからである。

存在論を語らないということについては、ウィトゲンシュタインも禅と共通していると言ってもよいかもしれない。論理哲学論考を参照してみよう。

  1.1 世界は事実の総体であり、ものの総体ではない。

ここには物から事への発想の転換がはっきり見てとれる。ものは事実の中に現れてくるのであって、ものの存在そのものだけが提示されるということはないのである。

  5.61 論理が世界を満たす。世界の限界は論理の限界でもある。
     それゆえに、論理の内側で「世界にはこれらは存在するが、
     あれは存在しない」と語ることはできない。

猫を抱きながら、「この猫は存在する。」と誰かに言ってみよう。多分、「そんなこと言われんでも分かっとる。」と返事が返ってくるかもしれない。この猫が存在しないということはあり得ないからである。もし犬を抱きながら「この猫は存在する。」言ったとしたら、言っている本人も自分が何を言っているのかが分かっていないのである。
また、(ここからは、野矢先生の受け売りだが、)「雪男は存在しない。」と言ったとしたらどうだろう。もし本当に雪男が居ないのであれば、一見その言明は正しいように見えるが、しかし雪男がいないのなら、「雪男」という言葉が一体なにを指していたのかが分からない。
つまり、存在しないものについては、あると言ってもないと言ってもその言明は無意味である。だとすれば、なにを、あると言ってもないと言っても、いずれにしてもその言明は真偽両極が存在しないゆえに意味ある命題とはなりえないのである。

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