mixiユーザー(id:235184)

2018年04月26日18:43

179 view

甘い言葉を囁く

 相手の耳元に口を寄せ「あまいことばあまいことば」と囁けば「甘い言葉」を2回も囁いたことになりません?

【ただいま読書中】『戦国おもてなし時代 ──信長・秀吉の接待術』金子拓 著、 淡交社、2017年、1600円(税別)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4473042022/ref=as_li_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4473042022&linkCode=as2&tag=m0kada-22&linkId=bde83523eb2e0579aeb6409466da6122
 東京オリンピック招致で有名になった「おもてなし」ですが、これが日本史で史料に多く登場するようになったのは戦国時代頃からです。ただし当時は「(お)もてなし」ではなくて「ふるまい」と呼ばれていましたが。この記録は、日本人が残したものだけではなくて、外国人宣教師が書き残したものも含まれています。
 戦国期の宴会記録は「御成記」と「茶会記」です。前者は、権力者がどこかに訪問してそこで催された饗宴の記録。後者は茶事の記録です。宣教師も記録を残していますが、そこでは「度の過ぎた飲酒で前後不覚になっている日本人」の姿が描かれています。また、酒を飲む素焼きの「かわらけ」は唇にくっついて皮を剥がしやすいので口をつける前に必ず唇を濡らしておくこと、という注意書きもあります。さらにこのかわらけ、1回ごとの使い捨てです。越前朝倉家の館跡の発掘で、かわらけが大量に(裏門付近の掘跡からは256kgも)発掘されていますが、これは宴会での使い捨てのあとでしょう。
 それは信長の好みに合わなかったようで、彼は饗宴を“改革"しました。漆器・陶磁器を多用し、使い捨ての素焼きのかわらけは使用しません。料理もそれまでの冷製料理ばかりを改め、温かいものは温かく供するようにしました。
 信長は政治に茶事を持ち込みましたが、それに伴って茶会記の内容も豊かになってきました。また、食器やお膳は金銀を散りばめたものになりますが、これはおそらく信長の好みを他の者も取り入れたからでしょう。
 「もてなし上手」と「もてなされ上手」は表裏一体の関係と言えます。茶会でも連歌の会でも、相手のことを思いながらの「もてなし・もてなされ」が行われます。
 巡礼へのもてなしもありますが、四国のお遍路への「お接待」を思わせる厚いもてなしもあれば、井戸の水の提供さえ断るという憎らしげな扱いをする人もいました。
 岐阜市の「信長公のおもてなし」は「日本遺産」に認定されています。その特徴の一つが「お持たせ」の活用。客が信長に贈ったものをすぐに他のものと組み合わせて歓迎の表現としています。日本遺産になるくらい、信長のおもてなしは他の人たちに印象的だったようです。ところが信長がおもてなしをされた記録はそれほど多く残っていません。信長自身が主体的に「もてなす」方が好きで受動的に「もてなされる」方には熱心ではなかったのかもしれませんし、もともと「御成記」は室町将軍などが「御成」をすることで身分の上下の再確認をしたわけですが信長の場合身分の再確認なんか不必要(その差は絶対的なもの)と認識していたためかもしれません。
 秀吉は「もてなし」の点では信長の“真似"に徹していたようです。ただ、単なる真似ではなくて、もっと派手、というか、ど派手にしていたところが秀吉の独自路線です。また、贈答品も、信長・秀吉によって豪華なものがやり取りされるようになりました。
 日本のおもてなしでは「いき」「美的」などの路線ももちろんありますが、「過剰」「サプライズ」の路線もあります。どうやら後者の路線は、「富」と「権力」をしっかり握ることができた信長や秀吉が日本で初めてきちんとした形を与えたのかもしれません。


0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2018年04月>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
2930