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2018年04月19日06:45

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 「AIは心を持てるのか」はAIに関する重要な問いですが、ところでAIに対置される「人間」はみな心を持っているんです? なんだか、他人にプログラムされた発言しか繰り返せない人間とか文字列検索ロボットなみの反応しかできない人間もいるのではないか、という疑いを私は持っているのですが。

【ただいま読書中】『AIは「心」を持てるのか ──脳に近いアーキテクチャ』ジョージ・ザルカダキス 著、 長尾高弘 訳、 日経BP社、2015年、2200円(税別)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4822285405/ref=as_li_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4822285405&linkCode=as2&tag=m0kada-22&linkId=2911a54ccdcef04324d0fc0ad7b25b7e
200万〜150万年前、ホモ・ハビリスが現れそれまでのものとは違う優れた石器を製作し始めました。22万年くらい前に出現したネアンデルタール人はさらに優れた石器を製作しましたが、材料は石か木だけでした。約10万年前に登場したホモ・サピエンスは「新しい心」を持っていました。石以外の骨や象牙を材料として道具を作り、洞窟をでて住居を建て、洞窟の壁に絵を描き、ビーズやペンダントで身を飾りました。この「新しい心」のキモは「言語」でしょう。世界を言語で認識できるようになれば、“それ"を操作できると考えるのは自然なことです。
 ……ということは、「世界は言語で構築されている」と見なすことができる能力こそが「人類の心」の特徴?
 デカルトの二元論は「世界が物質的なもの(レス・エクステンティア)と精神的なもの(レス・コギスタンス)から構成されている」ことを意味しました。さらに、そこに電気・化学の新発見が加わることで「生命の新しい比喩」が生まれます。
 知識には限界があります。その限界を押し広げるのが「比喩」と「類推」です。ところがこの言語的なツールがあまりに有効だったため、私たちは比喩と現実を簡単に混同しがちとなりました。しかしたとえば「脳とは何か」を考えるとき、比喩としてコンピューターを持ち出すことは有効な手段ではありません。だって脳はコンピューターではないのですから。
 人類の歴史を概観し、著者は「擬人化」「ストーリーテリング」「二元論」「比喩」を心の性質について論じるときに欠かしてはならない重要な要素とします。さらに「フィフス・エレメント」も重要である、と。
 本書ではやたらと「新プラトン主義(経験主義)」と「アリストテレス主義(論理はプロセス重視)」の対比が行われます。これは1000年前からヨーロッパでは人気の行為で、21世紀になってもこの論争が生き残っているわけです。これも一種の“二元論的立場"ですが、著者は「二元論は否定されなければならない」と主張しているのに、この“二元論的立場"は維持しているように見えるのは,面白いものです。おそらく著者の「教養」の基礎は古代ギリシアにあるのでしょう。
 著者は、ソフトウエアとハードウエアの二元論に基づくコンピューターには意識を発生させることはできない、と断言します。生物のアルゴリズムを応用して、最初はシンプルな人工頭脳を製作、あとは電子のスピードで「進化」をさせたら、勝手に立派なAIが誕生する、というのが著者の抱くビジョンです。現在将棋のAIはAI同士で対局して膨大な「経験」を蓄積して「進化」しています。それと同様のことを汎用のAIでもやれば良い、という発想です。
 私は「AIの中に心は発生するかもしれない(あるいはすでに発生しているかもしれない)が、その『心』を人間は理解できない、あるいはその存在を認知できない可能性が高い」と予測します。だって私たちは、蟻や鮪の「心」だって理解できていないでしょ? 生物の心さえ理解できない人類が、機械の心を認知・理解できるのかなあ。


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