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2018年04月17日06:43

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苺にミルク

 私が子供のころには、苺には加糖練乳(あるいは砂糖とミルク)をかけるのが“常識"でした。まだ苺そのものがあまり甘くなかったのかもしれません。だけど加糖練乳の“出番"はその時だけだったように思います(他の家ではパンに塗る人もいたようですが。今だったらミルクジャムの出番かな)。で、苺はそのまま食べるのが“今の常識"となりました。すると加糖練乳、今は何に使われているのでしょう?

【ただいま読書中】『明治製菓40年小史』明治製菓40年小史編集委員会 編、明治製菓株式会社、1958年、非売品

 1916年(大正五年)12月明治精糖は大正製菓株式会社(資本金150万円)を設立しました。目的は砂糖加工業。台湾を基盤に製糖業を確立し、こんどは砂糖消費の増進をしよう、というわけです。大正製菓は、数箇月前に創立した東京菓子株式会社(資本金100万円)と大正六年3月に合併、筆頭株主が明治精糖の東京菓子株式会社となります。社名は大正十三年「明治製菓株式会社」となります(第二次世界大戦中は「明治産業株式会社」)。
 第一次世界大戦後の不況ではじめは売上は伸びませんでしたが、すぐにお菓子は日本中で売れるようになりました。本書は社史ですから、役員の顔写真や○○工場開設などが詳しく書かれていますが、私は消費者の視点から広告の写真に心が惹かれます。戦前の子供たちも、チョコレート、ビスケット、ウェフアー(原文のまま)、ドロップ、キャラメルなどを食べていたんだなあ、と。
 明治精糖はさらに製乳事業にも参入、房総練乳株式会社に資本参加してはじめは明治精糖の傍系会社としますがやがて明治製菓の製乳部として吸収します。また昭和八年(1933)食品部門を発足、まずは果物の缶詰生産を始め、昭和十五年ころには、果実缶詰・ジュース・野菜や魚の缶詰・マーガリン・嗜好飲料の缶詰瓶詰めなど多種多様な食品を製造するようになっていました。
 昭和十年頃に会社は全盛期を迎えますが、戦争が激しくなると原材料が入手困難になり、軍需品生産で会社はやっと生き延びます。そして戦後の虚脱状態。お菓子など製造も販売もできる状態ではなく、会社は、製塩・ペニシリン製造など、製造の多角化に乗り出します。「明治製菓のペニシリン」って、なんだか甘いお薬みたいな雰囲気がしますが、品質はとっても優秀だったそうです。
 やがて砂糖も豊富に手に入るようになり、お菓子の売り上げはぐんぐん伸びます。
 そういえば、本書の出版は昭和三十三年ですが、それよりあとに「マーブルチョコ」が発売されて、これで私は「明治のチョコ」を覚えました。白黒テレビで宣伝していたのは、上原ゆかり。「7色そろったチョコレート」と言われても、色は見えませんでしたねえ。


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