mixiユーザー(id:235184)

2017年12月17日22:20

296 view

初飛行

 人類で最初に飛行機で飛んだのはライト兄弟、と思っていましたら、Wikipediaには別の説(「グスターヴ・ホワイトヘッドによる1901年8月の初飛行が世界初である」)も書いてありました。
 ところで日本で初の飛行者は徳川好敏ですが、これにもまた「別の説」があるようです。

【ただいま読書中】『空の先駆者 徳川好敏』奥田鑛一郎 著、 芙蓉書房、1986年、1800円
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4829500735/ref=as_li_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4829500735&linkCode=as2&tag=m0kada-22&linkId=2e5190a08756f5842925c6383ecaa589
 徳川好敏は明治17年に清水家(御三卿の一つ)の嫡男として高田の馬場の下屋敷で生まれました。当時皇族や家族の子弟は陸海軍の将校になるのが習わしでした(明治天皇の意志、と言われています)。徳川好敏も13歳で東京陸軍地方幼年学校に第一期生として入校します。理系に強い好敏は志望通り近衛工兵師団に配属されます。日露戦争が勃発、戦場や敵陣地の情報は空から得ることはできず「人(偵察、間諜、捕虜)」に頼るしかない時代でした。徳川好敏少尉は間諜を駆使して有用な情報を得ることができました。その功績が評価され、戦後に好敏は砲工学校高等科というエリートコースに抜擢されます。好敏は、機械が好きだったらしくオートバイも乗り回していましたが、1903年に初飛行したばかりの飛行機に興味を持ち、できたばかりに気球隊に転属します。そこでは軍用機球だけではなくて軍用機の研究も始めており、飛行術の習得と飛行機購入のために日野大尉とヨーロッパへ出張することになります(このとき、日野大尉は旧士族なので自由に行動できましたが、好敏は「徳川家」の一族重鎮たちの「飛行家なんて曲芸師に過ぎない」という思い込みをなんとか突破する必要がありました)。かくして二人は、明治43年4月にシベリア鉄道経由で入欧します。好敏はフランス語に親しんでいたのでフランスへ、日野は英語派でしたがドイツを好んでいたのでドイツに留学をしました。好敏はパリ北方のアンリー・ファルマン飛行学校に入学。操縦法の学習も飛行機購入の手続きは順調で、技術面の勉強をもう少し深く、さらに別の飛行機の操縦法も習いたい、というところで突然の帰国命令。軍は「一つ飛ばせればそれで十分だろう」という性急さ。先のことはあまり考えていないようです。そのため、帰国後好敏は故障したときの修理の時に苦労することになります。
 明治43年12月19日、ついに好敏は「日本における日本人初飛行」に成功します。同日日野も飛行に成功し、二人は「日本のスター」になりました。二人は次々新記録を更新し続け、日野はついに自分で飛行機を製作し始めます。日野式第一号機は高翼単葉機で意欲的な設計でしたが、日野自身が組織内での活動が苦手なタイプだったためか、資金は自分持ち、長期休暇を取って時間を捻出、協力者は民間から、という制限があり、なかなか完成しません。その間に好敏に軍から国産機の製作命令があり、乗り慣れたアンリー・ファルマン機をベースにした複葉機を完成させそれを「(研究)会式第一号」と命名しました(周囲は「徳川式」と命名しようとしましたが、好敏が押し切りました)。こうしてみると、日野大尉がちょっと気の毒に思えてきます。後輩の国産機完成を祝賀して日野も愛機でアベック飛行をしますが、軍は日野を少佐に昇進させ、地上部隊勤務を命じました。飛行機に関して日野はあらゆる面で天才的だったのですが、惜しいことです。結局冷遇に愛想を尽かして日野は軍を離れますが、第二次世界大戦で苦戦になると日野の才能をあてにして陸軍がすり寄って様々な兵器の開発を依頼するようになったのは皮肉なものです。
 “一人ぼっち"になった好敏は、次のステージを見据えていました。日本ではまだ「試験飛行」の段階ですが、欧米ではすでに「空中偵察」「地上との連携」に関する研究訓練が始まっていたのです。好敏は教育者としてパイロットを育成しますが、彼らは次々事故死していきます。好敏の時代にはのどかな飛行で不時着も余裕を持ってできましたが、飛行機の性能が上がってくると不時着の衝撃も飛躍的にひどくなっていたのかもしれません。
 第一次世界大戦で日本軍は「臨時飛行隊(飛行班と気球班で編組)」を青島に派遣します。飛行機は4機(ただし現地で組み立てて試験飛行中に1機破損)、偵察や爆弾投下に従事しました。気球班は偵察と砲兵の射弾観測です。しかし上空からの偵察では、低速で望遠鏡も使えるからとても精密な図が描けるのですが、それを見た軍の参謀が「詳しすぎるのは怪しい。やはり地上の偵察斥候で確認しなくては信用できない」というのですから、頭の固さには救いがないですね。そのため好敏は空中写真の開発研究を始めることになります。
 好敏の父は不祥事によって爵位を返上していましたが、好敏は航空機に関する功績が認められ男爵位が授与されました。「バロン徳川」の誕生です。戦前の人間、特に爵位を失うことで徳川一族の中で辛い立場を味わっていた人間にとっては特別な誉だったことでしょう。
 昭和11年に制定された航空兵団の初代兵団長は徳川好敏中将でした。この時「空軍」がきちんと創設されていたら、のちの戦局は変わっていたかもしれません。陸軍と海軍がいがみ合っていたところにさらに空軍がいがみ合いを両者と始めて、戦局がますます悪くなったかもしれませんが。ともかく戦局が悪くなると、慰留を振り切って退職していた好敏に召集令状が。航空士官学校の学校長職です。仕事は特攻隊員を育てること。明らかに「人材の誤用」なんですけどね、それを言ったら戦死者はすべて“誤用"の犠牲者でしたね。人体は“標的"でも“弾よけ"でもないんですから。


1 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2017年12月>
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31