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2017年11月14日07:15

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資本主義

 現在の格差社会を見ていると「資本主義」とは「資本家主義」なのか、と思うことがあります。だけど「資本を集めた者が勝ち」というルールがあるのだったら、たとえば貧乏人が結束して少しずつ「資本」を出し合って「資本家」に対抗する、という手もあるはず。問題は「資本の管理の方向性にどうやって合意を取るか」や「管理者が信頼できるか?」ですが。労働者が労働組合を作ったように、貧乏人も貧乏人組合を作って資本家に対抗できないかな。

【ただいま読書中】『ハンセン病の社会史 ──日本の「近代」の解体のために』田中等 著、 彩流社、2017年、1800円(税別)
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 古今東西、ハンセン病者は激しい差別の対象でした。新約聖書にその実態の一部が記録されていますが、仏教でも「業病」とされました。中世ヨーロッパでは患者は市外に隔離され、特別な服(灰色の外套、赤い帽子と頭巾)を強制され、歩くときには鳴子を鳴らす必要がありました。近代アメリカでも強制収容の対象で、たとえば戦時中のルイジアナ州カーヴィルの国立療養所には300人が強制収容されていました。そのカーヴィル療養所で1943年に特効薬プロミンによる治療法が開発され、ハンセン病は「治る病気」となります。少なくとも欧米では。日本では1953年に「らい予防法」が改定されましたが、そこでは強制収容がまだ正当化されていました。らい予防法が廃止されたのはなんと1996年で、そのため1998年に国家賠償請求訴訟が起こされます。
 ハンセン病の病因については「虫」「因果」「仏罰」などいろんな説がありました、江戸時代には「血脈(遺伝)」説が登場します。そして「文明開化」を迎えると「癩病は野蛮の証明」となります。文明の進歩はかえって変なことを起こす場合もあるようです。
 本書では「ハンセン病が治安の対象」だったことが問題視されています。ただ、これは戦前には仕方なかったでしょう。厚生省ができたのは昭和13年、それまで公衆衛生などを担当していたのは内務省でした。だから、村で患者の治療をするのは村医者ですが、精神病や肺病などの患者の管理は駐在所の巡査の仕事でした(町ではそれにプラスして赤線の管理も内務省が行っていたはずです)。つまり「そういう見方」を明治政府はしていたのです。私が思う「問題」は、治療法が登場し厚生省ができ日本が民主主義の国になった「後」も長く長くその「内務省の管理法」が保存されたことです。精神病者に対する座敷牢でさえ昭和25年に廃止されたことを思うと、ちょっと長すぎます。厚生省の官僚のハンセン病に対する態度は、なんだかとっても不自然です。
 「感染」する病気だから隔離する、というのは「合理的な言説」に見えます。だけど、その隔離された施設(強制収容所)で働く人たち(非病者)にハンセン病が感染しないことは、しばらく見ていたら誰の目にもわかることです。そこで「あれ?」と思わなかったのは、なぜなんでしょうねえ。おそらく「癩の撲滅」という国家目標が、「癩病の撲滅」ではなくて「癩患者の撲滅」だったからでしょう。一度「癩患者」という烙印を押された人は「非国民」であり「撲滅の対象」でしかなかった、という点で「ユダヤ人」の烙印を振り回したナチスと発想は通底していると私には見えます。だからこそ本名の使用禁止や断種処置や強制労働も平気でできたのでしょう。
 そしてついに裁判沙汰になるのですが、厚生省の「無理解・無慈悲・自己保身」はなぜかそのまま裁判所に引き継がれます。日本って、三権分立ではありませんでしたっけ?
 「業病」「血脈」「野蛮」「感染症」……“口実"はいろいろ変化していますが、「差別をしたい人」と「その行動」は実は歴史を貫いて共通の要素が大きいようです。実は「弱者を差別したい・いじめたい」が人類の“業病"なんじゃないですかね?


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