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2017年08月26日19:11

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「前」って、何の前?

 「南海トラフ地震、事前避難案…「前震」発生で」(讀賣新聞)http://www.yomiuri.co.jp/science/20170825-OYT1T50072.html
 「予知」はあきらめるけれど、「前震」が起きた場合には「事前避難」を促すんだそうです。
 だけど「その地震」が「前震」かどうかはどうやって判定するんです? 本震が起きるからやっと「前」だってわかるんでしょ?(それともこれまでに大きな地震が起きたとき(「余震」ではなくて)「これは前震でこれから本震が起きるから注意」と言っていたことがありましたっけ? 結局「本震の予知」が「前震の確定」に「科学」の話はすり替わっただけなのですが、政治的には政府は「予知」で責任を負うのではなくて、住民の「自己責任」に話をすり替えようとしていません? これは前にも書いたことがあるかもしれませんが、「減災」や「地震後の救済」についてもっと予算をつけた方が良いのではないかなあ。「地震は起きる、だけど地震が起きること自体には人は無力だ。」を前提とし、「被害は生じる、だけどその被害を少しでも小さくしよう」と覚悟する態度です。

【ただいま読書中】『諏訪湖底の狩人たち 曽根遺跡』三上徹也 著、 新泉社、2016年、1600円(税別)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4787715402/ref=as_li_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4787715402&linkCode=as2&tag=m0kada-22&linkId=e2009212db1abf4105b9c549b2b904c0
 諏訪湖底の曽根遺跡(1万年以上前の縄文遺跡)からは、近くからは産出しない黒曜石などから作られた石鏃(せきぞく:石のやじり)がたくさん出土しました。本書は、その石鏃を駆使したであろう縄文時代の「狩人」と、その石鏃と湖底の遺跡の魅力に取り憑かれて学問の世界で活動した「狩人」についての物語です。
 明治時代、小学校の代用教員だった橋本福松(写真で見るとけっこうな二枚目)は、独力で諏訪湖の湖底調査を行い、湖底でそこだけ泥がない「曽根」をシジミ採りの道具でさらい、黒曜石や燧石を発見しました。報告を聞いた東京帝国大学理科大学の坪井正五郎教授は興奮し、早速現地調査を始め、多数の石鏃や土器のかけらなどを発見しました。坪井は「杭上生活(杭を湖底に立て、その上に住居を作って生活をする)」仮説を立てます。湖底に住むことは確かにできませんからねえ。しかし東京帝国大学地質学教室の神保小虎教授は、「そんな長い杭を打ち込めるのか」「冬は氷結するぞ」と水上生活説に疑問を持ち、やはり現地調査をして地滑りの跡を見つけ、「陥没説(地表にあった遺跡が陥没で湖底に沈んだ)」を唱えました。
 坪井説には無理があるように思えますが、当時は欧米列強と伍するために「日本人の祖先は単なる野蛮人ではない」と主張する“必要”が学問の世界にもあって、結構背伸びしたり肩肘を張ったりの態度で仮説を立てていたようです。
 曽根遺跡に取り憑かれた人の中には、大量に収集した石鏃をきれいにボール紙の台紙に張り付け「諏訪みやげ」として売り出した人もいました。写真がありますが、たしかにきれいで、私も一つ欲しくなります。だけど「貴重な出土品」ですよねえ。
 第二次世界大戦によって諏訪は一時忘れられていましたが、1947年、15歳の中学生4人が湖底調査を始めました。やがて彼らは高校生になり、潜水眼鏡で盛んに潜水調査をします。そして「根がついた木片」を発見。これはつまり、曽根遺跡がかつては「陸上」にあったことを意味します。この成果などにより、考古学的な本格的な調査が行われ、曽根遺跡は活断層で沈降したと結論が出されました(そういえば琵琶湖西岸の湖底遺跡もたしか活断層での水没でしたよね)。
 遺跡での遺物の分布は不均等ですが、明治の先達の調査でも記録はけっこう綿密に残されていて、遺跡の全貌を精密に描写することが可能でした。それによって、曽根遺跡では、3万5000年くらい前から人が住んでいたことがわかりました。時代によって石器は少しずつスタイルを変えていきます。ノミ、ナイフ、槍の穂先、投げ槍の穂先、と人が使うものが変わっていったことも石器からわかります。石鏃では、非対称系のものもたくさん出土しています。片脚が壊れて落ちたものもありますが、最初から明らかに“その形”をねらって製造されたものもあります。今のところその意味はわかっていません。石器だけを持って原始生活をやってみて実際に使用してみたらその用途がわかるのかもしれません。矢を作るには矢柄が必要ですが、それは湖畔の葦が使えます。鳥の羽は……水鳥がそのへんに。おやおや、弓矢での狩猟に、曽根は最適のポジションだったようです。そして矢の製作に適した石器を縄文人は製作し、作れば作るほどその腕は上がっていった様子が見て取れます。
 縄文時代には海面は現在より相当下がっていたので、「海岸の遺跡」は今は海底にあるはずです。それも調査できたら、「縄文時代の日本」について今よりもっといろんなことがわかるでしょう。それがいつのことか、楽しみです。
 

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