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2017年04月03日19:48

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原罪からフリー

 ユダヤ教では、エデンの園での出来ごとから「原罪」が生まれたことになっています。旧約聖書では「神の命令に背いて知恵の実を食べたこと」が「罪」となっていますが、その“翌日”二人が陰部をイチジクの葉で隠していたところを見ると、もしかしたら二人はセックスをしたことを恥じていた、ということかもしれない、と私は思っています。そういえばユダヤ教の流れを真っ直ぐ汲むカトリックは、セックスに関する制限がやたらと多かったですね。
 ともあれ、「男女」であることが「原罪」と関連しているようです。ということは、最近公然と言われるようになった「LGBT」とか「性同一性障害」の人たちは、「アダムとイブ」の観点からは「原罪には無関係な存在」と言ってもよいのではないです?

【ただいま読書中】『ドサディ実験星』フランク・ハーバート 著、 岡部宏之 訳、 創元推理文庫、1979年、500円
https://www.amazon.co.jp/gp/product/B000J8EU8Q/ref=as_li_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=B000J8EU8Q&linkCode=as2&tag=m0kada-22&linkId=3ffcbc93a4cb1c882ecce55d0b2048bc
 「ジャンプドア」シリーズの第二作です。前作の「鞭打たれる星」で「ファニー・メイと名乗る異星人」の「カレバン」が実は一個の恒星だった(だから「鞭打たれる星」というタイトル)という驚愕の真相が明かされましたが、今作ではファニー・メイの会話術は格段の進歩を遂げています。言葉はなめらかになり、感情もそれにきちんと伴っています。でも「星」ですからね、油断はできないのです。たとえ愛を語っているときでも、とんでもないことを言い出しますから(というか、星が人を愛する、って、何?)。
 前作の冒頭に名前だけ出てきたゴワチン人(初めて地球人に出会ったとき「ウィリアムです」と自己紹介した蛙そっくりの異星人)が、今回は“表舞台”に登場します。しかしこのゴワチン人、「法律」に関する感覚が異様です。法廷は「闘法廷」で、裁判に負けたらその法律士は「自分の死を楽しむ」ことになってしまうのです。そして、マッキーは「ゴワチン人と人類が、『ドサディ星(位置不明)』で、外聞をはばかる非人道的な実験をしているらしい」ということを知ってしまい、その真相を知るためにドサディ星に送り込まれてしまうのです。彼の任務は、この「実験」の真相を探り出すこと、生き延びること、場合によっては「ドサディ星は住民もろとも破壊されるべきである」と勧告すること。
 実験を始めたゴワチン人だけではなくて、ドサディ星の住人(それも人類とゴワチン人それぞれ)の陰謀の多層構造が、ちらりちらりとマッキー(と読者)に示されます。しかし、その目的は? なぜマッキー?
 ドサディ星は過酷というか、ゴワチン人にも人類にも有毒な環境です。惑星周囲は「神の壁」で全宇宙に対して閉ざされています。そこで人々は「自分たちは幽閉されている」「自分たちは罰せられている」と信じ、それでも生き抜くために独自の進化をしていきました。それを実験を始めたゴワチン人は「我々は怪物を作ってしまった」と表現します。
 マッキーは「怪物」ではありません。天才でもなければ超人的な体技が使えるわけでもありません。彼の“武器”は、精密な観察力と適応力です。ゴワチン人に法律士としての訓練を受けたときには、そのエッセンスをあっさりものにして「ゴワチン人以上にゴワチン的」になってしまいますし、ドサディ星に入れば、「ドサディ人のエッセンス」をすぐに会得してしまいます。
 そしてマッキーは女になったりまた男になったりし、そしてまたゴワチン人の闘法廷に入ることになります。最初は「ゴワチン人に訓練された地球人」として。次は「ドサディ人」として。そこでは「法律」と「論理」と「度胸」が闘い合います。法律問題はややこしいものですが、異星人の価値観に基づく法体系の下での弁論は、「ややこしいの自乗」です。いやもう、こういったへんてこりんな物語を著者はよくも思いつけたものです。脱帽。


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