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2017年01月07日19:11

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騒音対策

 「静かにしろ!」もありますが「自分が耳栓をする」というのもあります(コンサートや講演会は除きます)。

【ただいま読書中】『「科学者の楽園」をつくった男 ──大河内正敏と理化学研究所』冨田親平 著、 河出文庫、2014年、920円(税別)
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 日本を「一等国」にするためには基礎科学に投資を、と高峰譲吉(タカジアスターゼやアドレナリン)は産業界の重鎮渋沢栄一を口説き、産業界から資金を集めようとしました。おりしも第一次世界大戦でてんやわんやのため資金調達は難航しましたが、ドイツからの化学製品の輸入途絶が「化学工業の発達」の重要性を日本に認識させることになります。帝国議会も補助金支出を可決し、ついに「理化学研究所」が発足しました。しかし第一次世界大戦後の不況やインフレ、さらに内部での権力闘争などで研究所の運営は困難を極めました。そんな中で所長を押しつけられたのがまだ若い大河内正敏(貴族院議員)でした。研究のボス格の人間の半数は自分より年上、という状況で大河内は「主任研究員制度」を取り入れます。「物理部」「化学部」といった固定的な縦割りではなくて、主任研究員が割り当てられた予算の中で人を集め資材を調達し、自分が好むテーマの研究を行う、というやり方です。研究室も、理研内に限定されず、予算だけもらって帝大などで研究することも許されていました。創生期の研究員には、長岡半太郎・鈴木梅太郎・池田菊苗など錚々たるメンバーが名を連ね、やがて寺田寅彦も参加します。大河内は“殿様”で、「基礎」「研究」「論文発表」を重視し、“放漫経営”を続けました。基金はどんどんやせ細ります。それを救ったのが、鈴木研究室から生まれた「ビタミンAの錠剤(商品名は理研ビタミン)」でした。当時国民病だった結核の患者は栄養補給のためにビタミンも愛好していたため、「理研ビタミン」は大ヒットとなったのです。鈴木研究室からはビタミン関連商品が次々発売され、さらには合成酒まで生み出されています。
 理研の特徴の一つに「技術の内製化」があります。「これはいける」というアイデアが見つかったら、それを製品化しさらに大量生産する道筋も自分たちで開発してしまうやり方です。合成酒の時に酒造メーカーから足を引っ張られたことを苦い教訓としていたのでしょう。その成果の一つがアルマイトでした。ともかく、「酒蔵の隣にサイクロトン」という奇妙な産学共同体が動き出しました。
 しかし、赤字だと「無駄金食い」と批判され、黒字になったら「財団法人が金儲けとはいかがなものか」と批判されるのですから、困ったものです。
 本書では実に様々な科学者の個性的な経歴と言動が紹介されますが、私に一番魅力的に感じられたのは仁科研究室に集まる人たちです。湯川秀樹や朝永振一郎などが切磋琢磨していましたが、その他にも魅力的な人が次々登場します。ここを読むだけで理化学研究所が「もの」を生み出すだけではなくて「人材」を日本に大量に供給していたことがよくわかります。そうそう、理研に入ってはいませんが田中角栄も理研と“関係”を持っていました。いや、意外な繋がりです。
 意外な人と言えば、武見太郎(後に「ケンカ太郎」と呼ばれた医師会長)も慶應の医局を辞めて仁科研究室に所属していました。理研は日本の歴史も変えています。しかし武見太郎が昭和12年には本と母を疎開させる家を田舎に準備していた、とは、先見の明がありすぎる人だったんですね。
 太平洋戦争が始まり、膨れあがった理研の企業集団は、統制経済と軍需生産の荒波の中で再編成を強制されます。軍需研究の中で最重量級が「ニ号研究」でした。仁科研究室での原爆開発です。昭和16年4月に陸軍が仁科に開発を依頼。仁科がOKの返答をしたのは18年。その間に仁科研究室ではサイクロトロンの建築を行っていましたが、やっと完成しても電力不足で無用の長物となっていました。電力だけではなくて、ウラン鉱石も不足しています。海軍は京都大学で「F計画」と名付けた原爆開発を行っていましたが、こちらは装置設計だけで終了してしまいました。
 ちなみに、原爆開発に成功したとして、どうやってどこを攻撃するつもりだったんでしょうねえ。風船爆弾?
 仁科は広島で現地調査を行い、大河内は貴族院で強硬派を抑制しての終戦工作を行っていました。そして無条件降伏。しかし軍の中には仁科に「地下に潜伏して原爆開発を進めろ」と命令してくる高官もいました(完成できたとして、どこで爆発実験をして、どこでどうやって実戦に使うつもりだったんでしょうねえ)。GHQはサイクロトンが原爆開発に関係していると難癖をつけて破壊、さらに大河内を戦犯として巣鴨に収監します。戦犯容疑はしばらく経つと晴れましたが、公職追放を受け理研の所長は辞任させられます。戦争中も理論研究を続けていた朝永は戦後も研究を続け昭和21年春には朝永ゼミを始めます。さらに理研の企業団は財閥解体で解散。理研は「食える道」をペニシリン生産に求めます。
 繰り返しになりますが、「理研」が生み出した重要なものは「もの」ではなくて「人」でした。湯川秀樹・朝永振一郎のノーベル賞、文化勲章や学士院賞は40名以上。それと「(基礎)科学を軽視する国は、戦争で負ける」という教訓も日本にもたらしたのではないでしょうか。今の政治家たちがその教訓をかみしめているとは思えませんが。


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