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2016年12月01日07:01

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歴史を思い通り動かす

 尊皇攘夷の志士たちは、明治維新のあと、呆然としたのではないでしょうか。「尊皇」は幕府を倒すことで達成されましたが、「攘夷」はどう見ても全く逆の洋装、もとい、様相になってしまったのですから。
 ということは「こんな風に歴史を動かしたい」と思って全国的な活動ができたとしても、その“思い”がその通り実現しない場合もある、ということに?

【ただいま読書中】『日本の西洋医学の生い立ち ──南蛮人渡来から明治維新まで』吉良枝郎 著、 築地書館、2000年、2000円(税別)
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 戦国時代に来日したカトリック宣教師たちは、宗教だけではなくて西洋医学も日本にもたらしました。南蛮人(ポルトガル人やスペイン人)がもたらしたから「南蛮医学」です。中世の修道院では、薬草園やホスピス(巡礼のための施術場所)が併設されているのが当たり前でしたから、宣教師が医術もできることはある意味当然でした。やがて紅毛人(イギリス人、オランダ人)が貿易に参入、そして鎖国。ここで細々と「紅毛医学の時代」がやって来ます。通詞でさえも出島から書いたものを持ち出せない制限の中、オランダ人医師が行う医療行為を見よう見まねで通詞が覚え、「蘭方医」が誕生します。
 そういえば『解体新書』で有名な杉田玄白は小浜藩の藩医(蘭方医)でしたし前野良沢は中津藩の藩医(蘭方医)です。『解体新書』以前にすでに日本のあちこちに蘭方医は存在していたわけです。ただし、杉田玄白も前野良沢も江戸在府でした。そして『解体新書』によって、日本の西洋医学は「長崎の通詞」から「江戸の蘭学者」に主導権が移ることになります。
 ヨーロッパではナポレオンが進撃をし、オランダという国は消滅、国王はイギリスに亡命し、オランダ国旗が公認された状態で翻っているのは地球上で出島だけ、という状態になりました。それにつけ込んでイギリスが出島の権益を手に入れようとしてフェートン号事件が起きます。こういった国際情勢を江戸幕府がどこまできちんと認識していたかは不明ですが、ロシアも蠢動しはじめ、「諸外国」に注意を払わなければならない情勢となっていました。
 シーボルトが来日し、蘭学の“中心”はまた長崎に移ります。オランダ語ができる日本人学生(下手すると、ドイツ人のシーボルトよりもオランダ語が堪能な者さえいました)が長崎の鳴滝塾に集結、そこで蘭学の炎が燃えさかり、各地に有能な“弟子”たちが散らばります。しかし、シーボルト事件・蛮社の獄・天保の蘭学弾圧・嘉永二年の蘭方医学禁止令(外科と眼科は除く)……蘭学への逆風が。しかし炎を消えませんでした。そもそも「諸外国の事情」を得るためには、蘭学者を駆使する必要があります。これは幕府にとっては大きなジレンマだったことでしょう。
 ペルリの「黒船」が来航。そしてその4年後にポンペが来日。彼は、それまで徒弟修業で医者を育てていた日本に、「医学教育」の概念と具体的なカリキュラムをもたらします。これは「革新」です。ポンペの講義を全部聴いた松本良順は、幕府の西洋医学所頭取に任命されると、ポンペの講義で作った講義ノートを教科書として授業を行いました。井伊大老は、奥医師に蘭方医を取り立て、医学教育を公認し、幕府公認の種痘所を開設するなど、日本の西洋医学確立の功労者です。
 幕末には外国人医師が続々来日し、医学教育の地固めを行いました。そして明治2年、オランダではなくてドイツ医学を政府が公認する医学として採用することが決定されます(日本に輸入されたオランダ語の医学書も、もとはドイツ語のものをオランダ語に翻訳したものが多かったこともその決定の根拠の一つでしょう。解体新書のもとになったターヘル・アナトミアもその原本はドイツ語です)。
 ただ、明治日本の西洋医学の基礎固めを行った日本人の多くは、長崎の医学伝習所で学んだ蘭方医でした。明治時代の日本医学は、江戸時代の蘭方医たちによって作られたのです。


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