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2016年05月06日07:06

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日本伝統文化の特徴

 日本文化の伝統と言ったらすぐに「わびさび」なんてことを口走りたくなりますが、歴史では「婆娑羅」とか「傾き者」とか非常に派手なものがありますし、踊りだったらねぶたのハネトとか阿波踊りとか“はっちゃけた”ものも「日本文化」の一部です。そういえば20世紀の派手な学ランとかルーズソックスなどもわびさびの対極に位置しそうですし、最近だったら各地で派手に開催されるようになった「YOSAKOI」もまたそれと同じ系統に位置づけたくなります。
 つまり「わびさび」は日本文化の伝統の一本の柱ですが、それとは対極の派手派手しいものもまた日本文化の伝統の別の一本の柱なんじゃないでしょうか。なぜかそちらは無視軽視されることが多いようですが。

【ただいま読書中】『盆踊り ──乱交の民俗学』下川耿史 著、 作品社、2011年(12年4刷)、2000円(税別)
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 日本では「性」に関することは民俗学では無視されてきました。しかし、まず「盆踊り」と「乱交」が関係していることを示す作品として「ヰタ・セクスアリス」(森鴎外)と「田舎教師」(田山花袋)内の描写が紹介されます。さらに「おかげまいり」や「ええじゃないか」にも性的なエネルギーが充満していることが示されますが、それが学者の手にかかると「病的な性的倒錯行為」になってしまうのだそうです。
 著者は風俗ライターだそうで「性」に対してとりあえず肯定的な態度で始めるそうです(というか、風俗ライターって、どんな作品を書いているのでしょう?……あ、先月読んだ『混浴と日本史』の著者でした)。ただし本書は「乱交礼賛」を目的としているのではなくて、「過去の日本がどうだったのか」を真っ直ぐ見つめようとしているだけだそうです。私に言わせたら「御先祖様が当然のこととしてやっていたことは、自分が賛成できないとしても、『自分はしないが、御先祖様はやっていた』と認めるくらいはしても良いだろう」となります(御先祖様が当然としていたことが、現在の子孫ではタブーになっているのだったら、その変化がどうして起きたのか、に対する歴史的興味は持ちますが)。
 ということで、まず登場するのは、当然でしょうが、「万葉集」や「常陸風土記」の歌垣(嬥歌(かがい))です。出会って歌を詠みあい、お互い気に入ったら手に手を取って藪の向こうに消える、とか、歌で勝負をして女が負けたら男の言うとおりになる、とかの集まりです。奈良時代の宮中では、「歌垣」は「踏歌」という行事に変化しました。人々が集まって歌を詠みあうのは同じですが、「集団の代表」として男女が登場して即興で歌を詠み、足を踏みならします(だから「踏歌」)。この動作が当時の人には大変エロチックに感じられたそうで、それだけで盛り上がるようになりました。やがて「踏歌」は、貴族の間では「男女の和歌の掛け合い」へと文化的に変質していきます。あ、だから奈良〜平安時代には名高い女性の歌人が多かったんですね。掛け合いだったら男女同数が必要ですから。
 798年「両京畿内の夜祭りの禁制」が出されます。「夜祭で酒を飲み、男女の別なく酔い乱れ、姦を事とす」のがけしからん、と。禁じられた、ということは、おこなわれていた、ということです。それも古代からの歌垣が。場所によっては年に1回とか2回とか“節度”のある地方もありましたが、年中おこなわれていたので「歌垣山」と名付けられた、なんて所もあります(「摂津風土記」)。「歌」が省略されて、集まったら即「雑魚寝(=乱交)」、という所もありました。
 平安時代末期に「風流(ふりゅう)」が日本で流行しました。のちの「婆娑羅大名」とか「伊達者」の庶民版のような、人の目を驚かす華やかな趣向を凝らした意匠のことで、華麗な衣装・趣向を凝らした踊り・祭礼に出す山車・派手な作り物、など「わび・さび」の対極にあるものです。ここで重要なのは「風流」が庶民の文化であったことで、それはつまり庶民が文化を持てるくらいに力をつけてきた、ということです。そう言えばこの時代あたりから「村」が強くなってきていましたね。そういった動きの中に「風流踊り」があり、これが室町時代後期から江戸時代初期にかけて日本中で爆発的に流行することになります。
 集落で「風流」の担い手は「若者組」でした。彼らは、祭礼・夜回り・遍路の接待・山林の見回りなど村の生活の基本を支えていましたが、そういった“活動”の中に夜這いもありました。「夜這い」もまた、万葉集や竹取物語に登場する「日本古来の風習」です。ところが日本の“正統的な学者”は「ヨバイという悪質化した行為」という評価をするんですね。「近世以降の支配者層の倫理観を押しつけるのね」と、なんだか、がっかりします。
 宗教行事の中には集団的エクスタシーをもたらすものが世界のあちこちにありますが(というか「エクスタシー」は本来宗教用語でしたよね?)、日本では「念仏踊り」がその機能を果たしたようです。平安時代中ごろ「声明」が広がります。難解な哲学が官能的な音楽に変貌したのです。そして、一遍は「踊り念仏」を全国に広めます。一行は20〜40人でしたが、その半数は尼僧でした。“興行”として非常にインパクトのあるものだったことでしょう。それが、一遍の死後、おそらく各地の「風流」と結合したのでしょう、宗教性が落っこちて「踊り念仏」は「念仏踊り」へと“進化”しました。若者たちは、たとえば女装して風流踊りを踊りまくりました。時代は応仁の乱、つまり社会の大混乱の時代。しかし文化的には百花斉放の時代だったのです。そしてそれは「盆踊り」へと収斂していきます(はじめは「盆躍」と呼ばれていたそうです。踊りではなくてジャンプだったのかな)。江戸幕府も夜通しの祭の禁止令を出しましたが、あっさり無視されてしまいました。
 乱交の文化史も面白いものですが、私がもう一つ面白かったのは、中央集権が進むにつれて権力者が庶民の乱交を嫌う度合いが強くなることです。明治政府の態度もすごいけれど、戦後の自民党政権政府も結構なものです。「民の自由」と「中央集権国家」とは、相性が悪いものなのかもしれません。


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