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2016年04月29日07:33

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発掘調査

 貝塚の発掘とはつまりは昔の人のゴミ捨て場を掘り返しているわけです。お墓の発掘とはつまりは墓暴きです。こうして言い換えてみたらあまり立派なことをやっているようには思えませんが、学術のフィルターを通せばとっても立派なことになるんですね。
 そうそう、現代のゴミ処理場(埋め立て地)も千年もすれば立派な「発掘現場」になるんでしょうね。そのときあまり恥ずかしい思いをしないですむように、変なものは捨てないようにした方が良いかもしれません。

【ただいま読書中】『琵琶湖に眠る縄文文化 ──粟津湖底遺跡』瀬口眞司 著、 新泉社、2016年、1600円(税別)
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4787715372/ref=as_li_qf_sp_asin_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4787715372&linkCode=as2&tag=m0kada-22
 琵琶湖には120箇所の湖底・湖岸遺跡が知られています。本書で取り上げられるのは、琵琶湖の南端の粟津湖底遺跡です。湖底では水や泥によって遺物が“パック”されて保存されています。その点で非常に貴重な知見が得られるのですが、その水が発掘の邪魔をします。さらに琵琶湖開発の動きが、調査をせかします。京都大阪の“水瓶”として琵琶湖の水を大量に使う計画なのですが、それによって琵琶湖の水位は下がります。すると航路確保のために湖底の浚渫が必要になります。そこに貴重な淡水貝塚がある、というわけです。ところが事前の潜水調査で、遺跡の広さは東西240m南北320mととても広いもので、どこに航路を通しても遺跡の破壊になってしまうことがわかりました。滋賀県教育委員会と水資源開発公団の間でぎりぎりの折衝がおこなわれます。
 ともかく発掘調査です。本格的な調査が始まったのは1990年。まず鋼矢板を打ち込んで「壁」とし、中の水を汲み出して発掘がしやすいようにしました。湖底を一時的に「陸地」にしたわけです。とりあえずの行動目標は、定められた期限までにすべての堆積物を陸地上に持ち帰ること。そうしたら、落ちついた環境でじっくり時間をかけて調査することができますから。出土したのは、貝殻の層・植物(木の実の殻など)層・砂の層が入り混じったものでした。さらに、石器・土器・骨角器なども出土します。かんざし・笄・耳飾りなどのアクセサリーもあります。漆塗りの櫛もあります。大成果です。
 しかし、20代前半の若手研究者3人とパートのおかあさんたちで資料の回収と分析をおこなっていたとは、教育委員会は大英断ですね。結果として人がどんどん育っていったのですから。その結果「縄文人の食卓」が具体的に復元されていきます。しかし、3〜4cmのシジミを食べていた、と聞くとうらやましくなります(昔のシジミが大きかったわけではなくて、今の日本では小さい内に取り尽くしてしまうから大きいものを食べることができないのだそうです)。不思議なのは、丁寧に顔面をはぎ取ったあとがある猿の頭蓋骨。著者は「猿のマスク」を作った、と想像しています。もちろん軟部組織の「猿のマスク」は残っていません。ただ、本当に猿のマスクを作っていたのだとしたら、その目的は何だったのでしょう?
 「季節性の復元」の話題もエキサイティングです。どの季節に何を食べていたのか、を明らかにする研究です。セタシジミの貝殻の成長線に季節差があることをまず明らかにした後で、遺跡のシジミがいつ採集された(食べられた)ものかを著者らは明らかにします。イノシシの歯からも季節が読み取れるそうです。琵琶湖沿岸で捕れる魚にも季節があります。こうして、春から夏は魚取り・シジミ採り、秋〜初冬は木の実拾い、冬は狩り(狩りは一年中おこなわれていましたが、最盛期は冬でした)、という年間カレンダーが作られます。その時手には入るものを食べていた、ということなのでしょうが、それで人類は滅びずにこられたのですから、年間を通じてバランスが取れていたら「一食とか一日での栄養バランス」にはあまりこだわらなくても良いのかもしれません。縄文時代を見ることが現代のライフスタイルを見直すきっかけになるのかもしれません。


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