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2015年07月24日07:41

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人はミスをするもの

 私はブログでは「95%以上の正しさ」を目指しています。最初から「間違えること」は目指しませんが、変換ミスとかタイプミス、思い込み、勘違い、書いた内容が古い、参照資料自体が間違っていた、などはどうしても混じり込むと覚悟しています。
 ところでこんなことを書くと烈火のごとく怒る人が登場することがあります。「100%の正しさを目指すべきだ。間違いを書いて平気なのか」と。平気じゃありません。ただ「常に100%正しいことしかしない人間」はこの世には存在しない、と思っていて、自分もそういった普通の人間に過ぎない、と思っているだけ。ただ、ミスの確率を減らすための努力は続けます。もし余裕があったら「どうか間違いがありませんように」と祈ることもします。祈ることもできないくらい切羽詰まっていると、さらにミスをする確率が増しますから。
 そうそう、烈火のごとく私のことを怒る人は、ミスはしないのかな?
1)自分はミスをしないと確信している(から他人を叱りつけることができる)。
2)自分はミスをするが他人のミスは許せない。
 1)は自己と人間一般に対する認識が甘いし、2)はただの傲慢ですね。
3)「99%以上の正しさ」を維持している。
 うん、このタイプの人の意見だったら聞いても良いです。ただ「99%以上の正しさを維持するための努力」について。自分が向上するための参考になるかもしれませんから。

【ただいま読書中】『砂漠の電撃戦 ──アラブとイスラエル、憎しみの戦い』エルンスト・トロースト 著、 松谷健二 訳、 早川書房、1969年、450円
http://www.amazon.co.jp/gp/product/B000J9KK3E/ref=as_li_qf_sp_asin_tl?ie=UTF8&camp=767&creative=3999&creativeASIN=B000J9KK3E&link_code=as3&tag=m0kada-22
 第二次世界大戦前、ヨーロッパから逃れたユダヤ人の多くはパレスチナを目指しました。支配者のイギリスは自分の利益を最優先し、ユダヤ人を特殊部隊員として訓練します。アラブは枢軸側と組もうとしました。戦後は中東の石油をアメリカとソ連が狙い、イギリスは自分の立場を守るためにアラブを味方につけようとユダヤ人の移民制限を行いました。それに対してユダヤ急進派はテロで応えます。イギリスは手を引き、パレスチナは暴力と暴力の対決の場となりました。48年4月9日、エルサレム近郊のアラブ人のジル・ヤシン村(ユダヤ人に好意的でアラブ義勇軍に協力しないという例外的な存在)が見せしめとしてユダヤのコマンド部隊に襲撃され250人が惨殺されました。アラブ人はパニックとなり何十万人もが逃げ出します。かくして50年前には存在していなかった「敵意」が確立されました。48年5月14日イスラエルの建国宣言。直後にシリア軍・レバノン軍・エジプト軍・イラク軍などが周囲から殺到します。しかしアラブは協力して軍事的優位を生かすことができず、結局イスラエルは6月11日まで国を守り切り、休戦協定が結ばれます。7月、10月、そして49年はじめにも戦闘が再燃し、国境がほぼ確定し、100万のパレスチナ難民が生まれます。アラブは憎悪に燃え、イスラエルは愛国心に燃え、国連は無力で、欧米諸国やソ連はそれぞれの思惑で武器の援助や販売などを行います。
 そして56年のスエズ戦争。ここで世界的に有名となった黒い眼帯のモシェ・ダヤン少将は、11年後にまた脚光を浴びることになりました。
 スエズ戦争で敗北を経験したナセルは、イスラエルに戦争を仕掛けないという条件で受けたソ連の軍事援助で軍を充実させます。しかし自信の威信を高めるためにイスラエルを挑発するために軍を出動させます。開戦のためではなくて示威のために。シリアは本気でイスラエル相手にテロを仕掛けていました。国連のウ・タントは各国から圧力を受けていたようです。そのため、休戦監視をしていた国連軍は肝腎の時に引き揚げてしまいました。その隙間が軍隊によって満たされます。
 当時のイスラエルの常備軍は5〜7万人。しかし緊急呼集がかかると72時間以内に23〜25万人の予備役が銃を取ります。予備役兵士たちも定期的に訓練が継続されていて、即戦力となるのです。それも高度に機械化された軍隊の。兵士の平均知能指数はおそらく世界で最高、さらに将校は命令の背後についての説明もします。その結果が「ゴリアテ」に勝つ「ダビデ」です。
 フランスはミラージュ戦闘機などを送り込みます。ただし開戦をしたら補給部品は送らないという制裁付きで。イギリスとアメリカも開戦を制止します。ジョンソン大統領は、チラン海峡封鎖に対抗して多国籍海軍によるイスラエル艦船の防衛を提案します。ただしその実行開始には数週間かかります。ソ連はイスラエルに警告します。イスラエル国内では不安が広がります。政府は「待つ」ことにします。ただし政府内では、平和派のエシュコルと新しく国防相になったダヤンとの仲は良好ではありませんでした。アラブの側でも対立と和解が繰り返されます。
 電撃戦にすべてを託している小国にとって、敵の準備がすべて整うまでじっくり待つことはできません。必要なのは自己を正当化するための“きっかけ”です。盧溝橋の一発のような。さらに重要なのは、イスラエルにとって「防衛」とは「敵地で戦うこと」であることです。56年の奇襲攻撃で得た教訓からアラブ側はそれなりに防衛を固めていました。イスラエルは、新たに得た空軍力を生かしてさらなる奇襲を考えます。兵士として使える人間には総動員をかけているため、国の運営が難しくなっています。だから戦争に長い時間はかけられません。また、国連や大国の介入の前に戦果を上げておく必要もあります。これまた時間の余裕はありません。
 67年6月5日、レーダーに映ったアラブの機影がイスラエルを目指していることを理由にイスラエル空軍はアラブ連合の空軍基地を掃討しました。数時間で地上はミグ・イリューシン・ツボレフの残骸でいっぱいになります。ついで戦車戦。ここでもイスラエル側は劣勢のはずでしたが、スピードと戦術の意外性と柔軟性によってソ連製の戦車は次々撃破されてしまいます。
 ヨルダン軍が強固に守るエルサレムは聖なる都ですが、それを少しずつ聖なる残骸に変えてイスラエル軍は侵攻しました。司令部は兵を急がせます。休戦協定が発効する前に占領を完了したかったのです。
 イスラエルにとってこの戦争の目的は勝利ではありませんでした。もちろん敗北してはいけませんが、10年ごとに3回も戦争をするのはいくら何でも多すぎます。もう戦争をしなくて良いように、アラブ連合の軍を完全に叩きつぶし、イスラエルの“存在”を認める政治体制をアラブ連合に作らせること、これが究極の目的です。しかしナセルは失脚せず、目的の半分は達成できませんでした。
 一番損害を受けたのはヨルダンです。国土の肥沃な部分1/3を失い、エルサレムとベツレヘムを取られて観光収入の95%を失いました。アンマン周辺には40万人の難民キャンプが設置されました。
 本書では、最後に“両者”が、片方は「サラーム」、もう片方は「シャローム」と挨拶することが紹介されます。どちらも意味は「平和」です。


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