「家政」を司る婦人とは、本来はとってもえらい人なんですよね? 国の政治が「国政」であるのと同様に、「家の政治」が「家政」なんでしょ?
【ただいま読書中】『工場日記』シモーヌ・ヴェイユ 著、 田辺保 訳、 ちくま学芸文庫、2014年、1200円(税別)
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ものすごくわかりやすく言うなら、西洋の「女工哀史」です。
プロレタリア革命に心引かれるが個人をとても大切に思う著者は、スターリン主義は否定しました。知性に恵まれ哲学教師をしていた著者は、労働者の実態を知らなければ発現にも思想にも意味がない、と考え、1934年に教師を辞めて一工員として工場に就職します。
朝から晩までプレス機との格闘です。ノルマに追われ、急ぎすぎて「オシャカ」を出すとそれはマイナス評価になります。言い訳や口答えをしたらそれもマイナス評価。
「日記」を読む限り、著者自身にも、体力の問題があるだけではなくて、集中力と注意力の配分にも問題がありそうです。ただ、それを指摘する人たちも「頑張ってと励ますだけ」「罵るだけ」「具体的に技術的なアドバイスをする」と様々なタイプがあります。どれが工場全体の効率向上に役立つかは明らかな気もしますが。
連日の単純作業のせいか、著者は頭痛や発熱、歯痛や不眠に悩まされます。そして「考えない」という甘美な誘惑に誘われます。
工場の環境も劣悪です。まるで労働者にわざと苦痛を与えようとしているかのように、環境は整備されていません。そしてその環境に傷つけられたら、それはその人の不注意のせいなのです。
工場での収奪の構造といったマクロな問題と、職場での人間関係というミクロな問題とが、著者をぎりぎりと締め上げます。著者は「人間の尊厳」という「理想」を持っていたはずですが、それが工場のプレス機械であっさりとプレスされてしまったかのようです。そしてその破壊の手は、著者の自尊感情にも影響を与えていきます。
本書を読んでいて私に著者の行動は、社会的あるいは思想的な実験と言うよりも、一種宗教的な意味を帯びているように感じられます。巡礼が聖地を巡るように、著者は「社会」を巡ろうとしていたのではないか、と。この苦痛に満ちた“巡礼”で、著者の心は何か光を見つけることができたのでしょうか?
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