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2015年02月23日06:31

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時代を超える人

 人は「時代」の中で生きています。その時代を超えることは、普通はできません。
 もし時代を超えて生きることができる人間がいたらその人は偉人と呼ばれるでしょう。ある時代の中でだけ通用するのは偉人ではなくてただの有名人です。もちろん有名人であることだけでも、大したものではあるのですが。

【ただいま読書中】『風姿花伝』世阿弥 著、 夏川賀央 訳、 致知出版社、2014年、1400円(税別)
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 本書の最初の版は1400年に世に出ました。私は能楽に関する秘伝書、と思っていましたが、現代語訳者の夏川さんは「教育書(いかに才能を開花させるか)」「ビジネス書(いかにお客さんに能を喜んでもらうか)」の書でもある、と述べています。そして、13歳で絶頂に登りますが、父やパトロンであった将軍義満の死後は不遇の人生となり佐渡への流刑まで経験する、という中でも能をあきらめなかった人の「人生論」でもある、と。
 まずは役者としての「花」について述べられます。子役、若手、ベテラン、それぞれの時期の「花」が役者にはあります。しかし能の役者としての絶頂期は35歳〜40歳。それを過ぎたら「花」は衰えていきます。そこで無理をせずに「主役」は人に譲ってしまい、それでも観客から「花がある」とみてもらえたらそれこそが「誠の花」なのだそうです。
 当時は「勝負」も広く行われていたようで、役者として相手に“勝つ”ための戦略も紹介されます。「料理の鉄人」みたいな感じだったのかな? 重要なのは、才能と稽古。さらに和歌の心得も。
 世阿弥は猿楽を「申楽」とも表現し、そのルーツを「天岩戸の前での踊り」「お釈迦様」「泰河勝」「聖徳太子」などに求めます。なんだかものすごい権威づけです。たしかに古い芸能ですが、聖徳太子が申楽を好んだ、というのは言い過ぎでは?
 本書では「真似る」ことが重視されていますが、「表面だけ真似る」のではなくて「本質を把握した上で真似る」ことが要求されます。ただしここで「観客の存在」が指摘されます。いくら自分が「上手く真似た」と思っても、それが観客に伝わらなければならないのです。それを上手に伝えるのが、演出であり演技です。
 そして「秘すれば花」。私はこの部分を読んでいて、つい先日読んだばかりの「剣客商売」を思い出していました。あそこでも秋山父子は「自分の戦術」を公開しません。読者にも知らせず命を賭けて対決をし、相手の意表を突いて勝ってしまいます。能と剣術とを比較するのは間違いかもしれませんが、世阿弥はもしかしたら剣客に通じるくらいの覚悟をもって能に向き合っていたのではないか、と思えました。


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