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2014年12月29日07:10

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読んで字の如し〈草冠ー7〉「芝」

「芝浜」……芝生がある浜辺
「隣の芝生は青い」……ブルーのペンキが塗ってあるらしい
「芝居」……東京芝の居宅
「芝のホテル」……芝で建築されたホテル
「芝煮」……飢饉の時なら食べることができる
「一芝居打つ」……芝居を一つ太鼓に詰めてある
「草芝居」……草の芝が居る
「紙芝居」……紙の芝が居る
「ちんこ芝居」……○○○が主演する芝居

【ただいま読書中】『日本銀行と政治 ──金融政策決定の軌跡』上川龍之進 著、 中公新書2287、2014年、880円(税別)
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4121022874/ref=as_li_qf_sp_asin_tl?ie=UTF8&camp=767&creative=3999&creativeASIN=4121022874&link_code=as3&tag=m0kada-22
 1990年からの日本の経済的低迷は日本銀行の間違った金融政策による、その対策はリフレーション(通貨の再膨張)によるしかない、とするリフレ論者が2012年の総選挙での自民党大勝で力を得て、日本銀行を“支配”しました。
 リフレ論者の主張を見ると、日本銀行は“諸悪の根源”です。
1)1980年代後半に低金利政策を継続して、バブル経済を発生させた。
2)89年〜90年代初頭に金融を引き締めすぎて不良債権問題を発生させた。
3)90年代に金融緩和が不十分でデフレを発生させた。
4)2000年にゼロ金利政策を解除してデフレを長期化させた。
5)2006年(サブプライム危機の年)に金融引き締めへ政策を転換してデフレを深刻化させた。
 著者はここで疑問を投げかけます。
1)日銀は独立して政策を実行できていたのか?(政策決定に政府与党からの圧力はなかったのか?)
2)日銀の政策はすべて誤りだったのか?
 さらにもう一つ。
3)なぜ日銀は追い詰められた(独立性が低下した)のか?

 「中央銀行」の機能は「発券(貨幣の発行)」「銀行の銀行」です。それに追加して「政府の銀行」である国もあります。つまり日銀はまず「通貨の安定」を考えます。ただし改正日本銀行法では外国為替の安定は日銀の業務ではありません(大蔵省(当時)の仕事とされました)。「金融システムの安定」も重要です。だから銀行検査が日銀の重要な仕事になっています。
 戦後ずっと先進国の中央銀行の課題はインフレ対策でした。それが変化したのが90年代の日本のデフレです。これまでに経験がない事態のため日銀は様々な試行錯誤を行いましたが、世界各国は「日本は例外」と見ていました。それが変わったのが2008年の世界金融危機とそれに続く世界的なデフレ懸念です。つまり「バブル崩壊とデフレ」を日本は“先取り”して経験していたのでした。そのため日銀がいろいろ試した経験を各国の中央銀行は参考にしながら金融政策を展開しています。
 そもそも中央銀行が政府から独立していることには理由があります。問題はその「理由」が短期的な目標(次の選挙にとおること)が最優先の政治家には気に入らないものであること。ただし「独立性の重要性」が言われるようになったのは20世紀末のことで、日銀も98年の日銀法改正までは独立性はほとんどない「政府の従属物」でした。
 ……あれれ。ということは「20世紀の日銀の金融政策を責める人たち」はつまり「日本政府を責めている」わけなんですね。
 実際に、1974年の「狂乱物価」やバブル経済は、日銀の独立性の低さが生み出したとされる、と著者は述べています。
 日銀の“生き方”はそれほど単純ではありません。金融のプロとして、世間に恥ずかしくないパフォーマンスを見せなければなりません。しかし、あまりに頑張りすぎると政治介入を招きますから、そこに絶妙の“加減”が必要となります。マスコミ対策も必要です。
 政治の側から見ると、「中央銀行は言うことを聞かない」を前提として、それにいかに自分の言うことに従わせるか、が「政治的手腕」となります。13年に安倍首相が、日銀法改正をちらつかせながらリフレ論支持者を総裁と副総裁に任命したのも「政治手腕」の一つです。
 1995年大蔵省の失態が次々明らかになり、大蔵省改革が高らかに謳われました。そこで権限を分散させるための一環として、日銀の独立性を高める日銀法改正が行われました。日銀から見たら棚ぼたの独立性獲得です。しかし、法的な独立性の向上と反比例するかのように、政治からの圧力は高まりました。この時からの、速水・福井・白川・黒田の4代の総裁の動きと日銀が置かれた環境とそれに対する日銀の反応とが、新書が許す限りの詳細さで述べられます。下手な経済小説よりはるかに面白いノンフィクションです。
 速水総裁は「強い円」が持論でした。しかし大蔵省は景気回復と為替を連動させるため円安誘導を行います。アメリカはそれを批判します。速水と日銀が主張する「筋が通った経済政策」は、日米政府・マスコミから批判され、日銀は屈服することになります。具体的には「量的緩和策」の実施です。しかし不良債権処理が量的緩和でできるのでしょうか。そこに小泉政権の誕生。塩川・麻生は追加緩和を求め、竹中はインフレ目標設定を求めます。しかし小泉はインフレ目標設定を否定。公的資金の注入でも意見が割れます。
 しかし、10年以上前から「インフレ目標設定」について、激しい議論が行われ、葬っても葬ってもゾンビのようにその議論が復活しているのを見ると、ある種の人にとっては麻薬のように魅力のある政策なんだろうな、と思えます。反対派が挙げる弊害のリストを見ると、“副作用”が非常に強いようですが、アベノミクスはその副作用対策は万全なんでしょうか?
 20世紀には政府・与党はけっこう気楽に日銀批判をしていました。しかし日銀法改正で総裁人事に国会の同意が必要になると、日銀批判はすなわち「そのような人を任命した責任」を問う、つまり天に唾する態度になってしまったのです。話がややこしくなります。マスコミにリークされる話も、そのへんを勘案して読む必要があります。
 さらに「量的緩和論」は“負けない”論です。いくら説明しても論者の“信念”を変えることはできませんし、実際に量的緩和をして効果が出なくても「量がまだ足りないだけ」と反論されるだけです。量的緩和論には「反証可能性」がないのです。すると日銀は、量的緩和を求められる“前”にやって見せて「努力している姿勢」をアピールするしか、非難されずに生き延びる道はありません。日本では「実際に効果があったかどうか」よりも「努力している姿勢を見せたかどうか」の方が高く評価されますから。
 小泉は構造改革で景気が回復すると信じていました。だからインフレ目標を採用しませんでした。しかし自民党の中では意見が割れていました。伝統的な政治手法では「不景気には財政出動」が「決め手」だったのです。財務省主計局は、インフレ目標が機能すると国債の長期金利が上昇するので、インフレ目標よりは日銀の国債直接引き受けを好みました。経済界でも実はインフレ目標はあまり支持されていませんでした。
 2007年参院選で与党は大敗して「ねじれ国会」が出現、安倍首相は突然辞職。福田首相はねじれに苦しめられます。その典型が国会での同意人事。民主党は「拒否権」を発動します。そのため日銀総裁が不在、というとんでもない事態が出来しました。そして、サブプライムローン問題に続いて2008年にリーマン・ショック、世界金融危機です。日本は金融危機には直面していないのに「グローバル化」の影響で急激な円高と(英米以上の)株価の下落がおきます。日銀は金利を下げる以外の手がない状況に追い込まれてしまいました。
 民主党は野党の時には日銀の独立性を尊重する立場でしたが、政権を取ると金融緩和を求め続けます。
 そして12年の安倍政権誕生。政治と市場からの圧力は高まり、ついに日銀は屈服し、「異次元の金融緩和」が行われることになります。リフレ論者は高らかに勝ちどきを上げます。
 そういえば就任に当たって「2年で消費者物価2%アップが実現できなかったら辞任する」と新副総裁が公言したのが13年の3月でしたね。消費者物価はたしかに順調に上昇していますが、その主原因は円安ではないです? さて、実際にどのくらい日本の景気は良くなっているのでしょう。


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