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2019年11月19日06:10

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映画というものは、俳優の魅力がとらえられていれば内容なんかなくてもいい。ジャン・ガブリエル・アルビコッコ監督「金色の眼の女」(1961)。

マリー・ラフォレが亡くなったので、追悼の意味でDVDを購入しました。学生時代からずっと見たかった作品です。当然、届いたその日に封を切って見ました。今まで待ったおかげで、デジタル・リマスターされた画質が楽しめます。「赤と青のブルース」はコピーのコピーみたいな、ひどい状態でした。

物語は、ファッション写真家アンリ(ポール・ゲール)が、金色の目をした若い女性に夢中になる、というもの。モノクロ映画ですから、青い目なのか金色なのか分かりません。とりあえず黒い目ではないからOKでしょう。で、名前を名乗りもしないその女(マリー・ラフォレ)も、アンリに恋をしていく、という展開。

見も知らん男女が、お互い好きあったところで、普通なら“勝手にしなはれ”でオシマイです。ところがその女性(あるいは男性)がマリー・ラフォレのような“突出した素材”だったわけです。そうなると、話なんかどうでもよくなるから不思議。彼女を取り巻く人間関係がいろいろ描かれるけど“ウザイ”だけです。

つまり、マリー・ラフォレ扮する“女”(La filleだから少女?)を眺めているだけで90分はもつわけです。←これは個人的感想で、すべての観客に当てはまるものではありません。でも僕は、この映画のマリー・ラフォレには該当すると思います。それは「シベールの日曜日」のパトリシア・ゴッジと似ています。

残念なのは、映画の展開がありきたりなこと。“駅で7時に”とアンリが言ったから、“女”は駅に現れる。しかしアンリはいない。そこで“女”はアンリを追う。追われたアンリは“女”に惚れる。という過程が、雰囲気たっぷりに描かれるかと思いきや、実に簡潔に(というより簡単、安易に)描かれます。ロジェ・ヴァディムなら、男女の心の通い合いしか描かないだろうに、なんたる不首尾。

でも、この映画に限っては許します。マリー・ラフォレという素材が、すばらしいからいいのだ。←そう思わない人は面倒なので、ちょっとあっちへ行っててくださいね。そういう観客に対しては“不幸な方々だ”とお悔やみ申し上げるしかありません。←複数いるだろうことは僕も承知しています。その程度の冷静な視点は常に持ちあわせておるのだ。

なに?アルビコッコ監督って、本気でマリー・ラフォレに惚れてた? 知らん知らん。そんな話は知りたくもない。そんなこと気にしていたら、お気に入りの女優が誰かと結婚したら、僕は自殺しないといけない。そんなん、命が30あっても足りへんやん! というか、そのあたりの空想(妄想?)で命を絶つほど、僕はロマンチストやないねん!

もっと残念なのは、90分という尺の中に、マリー・ラフォレが映っていない場面が多すぎること。とはいえ、彼女のイメージ映像だけ並べられたら、それでは映画ではありません。そんな映像集なんか買うはずないし、見る気にもならんわ。←だから僕は、アイドルを好きでもその人の写真集まで買うということはしません。って、そんな決意表明は無意味ですな。

少なくともこの映画は、登場するスポーツカーを眺めるという意味よりも、マリー・ラフォレを眺めるという行為が“正しい鑑賞法”だと思います。そして、そういう行為は対象物(つまり俳優さん)が亡くなってから行うのではなく、同時代的に体験しないといけない。後追いファンなんか、豚のえさになってしまえ!ということです。

それほどマリー・ラフォレに惚れていたなら、ちゃんと新譜発売時に購入しておけ、という外野の声もあるでしょう。でも外野からの野次をいちいち気にしていたら、阪神タイガースのファンを55年も続けていられません(通算、ね。途中で見限ってた年あり)。つまり僕は、その程度の批判は痛くも痒くもない。こういう場合は自分の厚顔さに感謝したいほどです。

てなわけで、他人ののろけ話におつきあいくださり、ありがとうございました。あんたもヒマやねぇ。今さらマリー・ラフォレを追いかけてもしゃーないよ。別の誰かを見つけなはれ。この映画にはフランソワズ・ドルレアックも出とるでよう。って、50年以上前に亡くなっているけどね。
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