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2019年08月09日17:24

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カントと因果的必然性

現代人のほとんどは科学を信じているのは間違いない。天体の運動が物理法則に従っているからには、明日も地球に朝がおとずれることは間違いないと安心していられる。このような我々の安逸に対して一石を投じたのがデイヴィッド・ヒュームの懐疑である。
いきなり、「因果関係には論理的根拠がない。」と言い出したからである。このことに危機感をもったのがカントで、彼はそれを克服するために純粋理性批判を著したという話は有名である。
ヒュームもカントも因果的必然性があるということは間違いないと信じている。ただヒュームはそのことを人間の持っている論理によって説明することはできないというのである。カントもほぼそのことを認めている。ヒュームはそれを習慣からくる信念という心理的なものとして自分を納得させた。が、カントはそれでは納得できない。

純粋理性批判は難しい、特にこの因果関係について述べている部分は、私も正確に理解できているという自信はないが、思うところを述べてみたい。

我々は山や木を見ることができるが、ミミズはそれらを見ることが出来ない。ミミズは視覚という感覚をもたないからである。私たちはたぶんミミズより、この世界について多くのものを見ていると思うが、決してすべてを見ているわけではない。物自体の世界の実際はどうであれ、私たちの感官に触れないものと私たちは没交渉である。また、感性におけると同様に、この世界の知的把握という面においても、私たちの知性の枠組みに当てはまらないような事態を、私たちはやはり認識できないだろう。つまり、私たちの見ている世界は感覚的にも知覚的にも、私たちの主観によって構成されたものである、というのがカントの構成主義である。

カントは私たちの知性の中に因果関係というカテゴリーがあるのだという。そのために、私たちはものごとを因果関係の中に見るのである。つまり、因果関係は論理による根拠づけなど不要である。論理と同様ア・プリオリだからである。
運動会の徒歩競争で、スタートのピストルの合図より前にランナーがどかどかとゴールインしてきたら、その事態を我々はどのように解釈できるだろうか? われわれがこの世界を整合的に把握できているからには、因果関係はア・プリオリの「はず」である、とカントは言うのである。

ここで、前々回の「数学と科学(物理学)の関係」という記事で、「なぜ『論理』がこの宇宙の秩序と整合しているのか?」ということについて、「それはたまたまだろう」と述べたのだが、それに対して、Uさんから「『それはたまたま』ではなく『必然』と考えるのがカントの哲学ですね。」というコメントを頂いた。

確かに因果関係があればそこになんらかの法則が生じるのは必然だと思うのだが、自然法則と数学の間にはあまりにも符号が合い過ぎているのは、因果的必然を通り越しているような気がして、そのことを私は「たまたま」と言ったのである。

ビリヤードで言えば、「球を突いたからその球が転げて他の玉にぶつかり、さらに‥‥」というような因果関係が成立することをカントは言っていると思う。その球の軌道やスピードについてまで厳密な数学的関連性まで必然であるとはカントは決して言わないと思うのだがどうだろう?

それにしても純粋理性批判というのは難しすぎる。誰か、因果律がア・プリオリであるというカントの主張を分かりやすく解説してくれないだろうか?
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