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2019年04月13日13:52

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祝? 十周年

私が初めてブログ記事を書いたのは、ちょうど10年前の4月13日である。哲学の勉強を始めたのもちょうどその頃である。
https://ameblo.jp/toorisugari-ossan/entry-10241748473.html

昔から家族には「三日坊主の哲」と揶揄されていた私が、これほど長い期間続けたものは他にはない。もともと文章を書くのは好きではないのに、これほど続けることができたのは、それだけ暇だったということなのだろう。

正直に白状すると、ブログを書くことによって文章が上手くなって、面白い本を次々にものにして、印税で少しくらいは儲けることができる、などという甘い妄想が少しはあった。お笑い草だが、多少自分の知性にうぬぼれていて、少し頑張れば寺田寅彦先生程度の文章が書けるのではないか考えていた。

しかし、文章を書くのは意外と難しい。なかなか思い通りにかけないものである。書いている途中に、自分が最初に書こうとしていたこととは別のことを書きだしていることに気がつく、と言うのはしょっちゅうである。結果、「本当に書きたかったのは、こういうことではないんだがなあ」ということになる。一度として得心のいく記事が書けたためしはない。

私は長い間その理由について、私の語彙と書く技術が足りないせいにしていたのだが、最近になって、「人が文章として書けるのは、その人が考えたことがある事だけである」という単純な事実に気がついた。つまり、「考えていないことは書けない」という当たり前のことなのである。書く技術がないのではない、考えていないだけなのだ。語彙が足りないのではなく、教養が足りないのである。

書くことと考えることは同じである。漠然と考えるとか漫然と考えるというようなことはないのである。「考える」とは論理の運用であるからには、明晰でなくてはならない。思うように書けないのなら、なぜかそれを考えなくてはならない。考えることによって書ける領域も広がっていく。漠然としたものを言語化する、それが「考える」ということである。

寺田寅彦先生は広大無辺な教養の、その上澄みを虚心坦懐に綴っているのだと思う。それに対し、私は貧弱な知識を過大に見せようという欲があるために、「思うように」は書けないのだ、ということにこの歳になって気がついた。

今後は身の丈に合った文章を、私心なく綴っていくよう精進するしかない。

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