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2019年03月06日11:07

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語りえぬこと

「論理哲学論考」について議論している際に、「論理空間の外つまり語りえぬことについてはすべて無意味だ」と口を滑らしてしまった。それで、「あなたは『論考』を根本的に誤読している」と言われてしまったことがある。「無意味」というところを「ナンセンス」と言えばよかったのだろう。意味を使い分けようとしている意図は分かるが、本来の日本語のニュアンスからすれば、どちらもひっくるめて「無意味」と、つい言いたくなるのである。

「6.44 神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである。」という言葉からも、ウィトゲンシュタインが「語りえぬこと」についてある種のもどかしさをほのめかしていることは分かる。しかし、それでも私は『論考』の価値は「無意味なものは無意味」と言い切っているところにあると考えている。むしろ。「『論考』を通じてウィトゲンシュタインは本当はなにを言いたいのか?」などということを口にするのは哲学徒として恥ずべきことだと思う。この際、ウィトゲンシュタインの真意などどうでもいいのだ。哲学と言うならあくまで自分の考えを述べねばならない。

よほどの天才でなければ、独創的な考えを一から積み上げることはできない。凡庸な私たちは、カントやウィトゲンシュタインから考えるきっかけをもらうのだが、あくまで自分で考えて、そこからどれだけのことがいえるかが問題である。ただ難しいことを理解したというだけではだめで、なにか面白いことを自分の口から言えるようにならなければならないと思う。理解のレベルが高いか低いかそンなことも問題ではないと思う。大雑把に言えば面白いことが言えるかどうかだと思う。自分で考え、そこで何かをつかんだという、そういう形跡さえあれば、その人の話は十分に面白いと思う。

ミクシィでは、ウィトゲンシュタインについて言及されることが多いが、陳腐で皮相的なコメントがほとんどのように思える。そんな中で「『論考』は語られたことよりも語られなかったことの方が重要なのだ」などという文言を見ると正直げんなりする。
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