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2019年02月23日11:20

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ウィトゲンシュタインの講義 数学の基礎編

ウィトゲンシュタインがケンブリッジで教鞭をとっている時、アラン・チューリングは彼の学生であった。その講義の中で興味深い議論が行われている。アラン・チューリングが数学者を代表して、「矛盾を許せば、間違った結果が導き出される惧れがある。」と言うのに対して、ウィトゲンシュタインは「矛盾からどのようにして間違った結果が導き出されるというのだ?」と聞き返す。
この時「矛盾」と言われているのは、いわゆる「ラッセルのパラドックス」と呼ばれるような自己言及パラドックスのことである。フレーゲもラッセルも論理学から数学を再構成する際に、自己言及パラドックスを排除するのに苦労したのだが、ウィトゲンシュタインはその意義を認めない。彼に言わせれば、自己言及パラドクスは単にナンセンスな言明でしかなかったのである。

「私はうそばかりつく」と言うことは日常ではありえるかもしれない。たぶんそれは論理的に文字通りの意味ではなく、今までにたくさんの嘘をついたことへの悔悟の気持ちを表すための感情表現としてである。

言葉がすべて論理的な整合性に沿って自分の意図を表現するものだとしたら、嘘しか言わない人が「私は嘘しか言わない」と言うような状況というのはあり得ないのである。「この紙に書かれていることは嘘である」と紙に書こうとしている人は、(もしまじめにそれを書こうとしているとしたら)自分でも何を表現したいのかを分かっていないのである。
つまり、ウィトゲンシュタインは、なにかの意図をもって証明や計算する場合、その過程の中で自己言及命題が出現することはない、と言いたいのだろう。

算術はラッセル以前に完成している、なのにその正当性がプリンキピア・マティマティカのパラドクスにかかっているとしたらおかしい。タイプ理論を採用しようがしまいが算術には関係がない。そもそも集合論を認めていないウィトゲンシュタインにしてみれば、なぜ算術がプリンキピアによって再構成されねばならないのか、と言いたかったに違いない。


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