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2018年12月13日07:13

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金持ち

 持っているだけで使えなければ、あまり豊かとは言えません。たくさん使えるから金持ちの意味があるわけで、だったら「金持ち」ではなくて「金使い」とでも名前を改めたらどうでしょう?

【ただいま読書中】『写真で見る海軍糧食史』藤田昌雄 著、 潮書房光人社、2014年、2300円(税別)
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 まずは「咸臨丸に搭載された糧食一覧」から。米が一人一日五合計算で、100名150日分だから75石、水は100石ですが、節約のため米は海水で研いで真水で炊飯しました。この時点で「遠洋航海に和食は不利」と私は思います。さらに炊飯釜にはスタビライザーを付けて船体が動揺しても石炭で炊飯が可能にしたそうです。「幕府海軍」の食事は、最初は一人一日「米一升(十合)」でしたが(幕府陸軍は六合)、慶応三年に初めて「海軍議定条例」が定められたときに「米は一人一日六合を支給」とされました(副食は「薬代」酒は「酒代」が現金支給されました)。
 宮古湾海戦と箱館戦争がありましたが、幕府海軍の艦船はほぼ明治政府に引き継がれ(軍艦10隻と輸送艦8隻)、それに各藩の艦船35隻が加えられて、帝国海軍の“出発点"となりました。興味深いのは、明治3年にすでに「海兵隊」が存在していることで、「儀礼の衛兵」「礼砲発射」「陸戦」「乗移戦」「楽隊」などその任務は多岐にわたっています。また、脚気発生率の表では、明治11年〜15年で下士官・兵員の25〜40%に脚気が新規発症していた、という恐ろしい実態もわかります。ところが欧州への遠洋航海で、寄港地ごとに栄養価の高い食事を摂ると脚気の発生率ががくんと下がります。これで何か考えないとしたら、その人の頭はただの帽子の台でしかないです。さらに、欧米人の船には脚気が出ないことを見たら、これは「食事の差」ということになり、和食から洋食への転換が考えら、実験的にパン食を導入した艦では脚気発生率が激減しました。
 非常用の保存食として、イギリス海軍に倣ってビスケット(堅パン)と塩漬け牛肉が準備されていましたが,日本人の口には合わず(というか、イギリス海軍の水兵も喜んで食っていたとは思えません)明治15年には缶詰が導入されます。生鮮食料や生肉の保存には苦労をしてましたが(甲板で牛を飼っていたこともあるそうです。だけど、屠殺したら腐る前に一気に食わなきゃいけないわけですけど)、日露戦争頃本格的な給糧船が登場します。艦隊全体の一箇月分の食糧を搭載でき、甲板に冷却装置(製氷機)が設置されて生鮮食料の長期保存が可能になっていました。
 日本海海戦の時、駆逐艦「白雲」は海が荒れていたため昼・夕食とも「堅パン、砂糖、コンビーフ、水」でした。同じ日の駆逐艦「霞」では梅干し入りの握り飯を作って配っています。志気に影響が出そうですねえ。お互いのことを知らないからそれぞれ「こんなものか」と思っていたかもしれませんが。戦艦「三笠」では海戦当日の朝食と昼食は通常通り提供。昼食調理に引き続き戦闘開始を予想してそのまま夕食の準備に入り、戦闘開始直前の午後二時には各部署に夕食用の握り飯を配食してスチームを停止しました(厨房が被弾したとき蒸気で被害が拡大するのを防ぐためです)。戦闘終了後の5月27日夜は、徹夜で握り飯の調理が行われ、28日未明に朝食分と昼食分の握り飯を配食しています。通常の戦闘配食なら堅パンですが、士気高揚を狙ってのことだったようです。
 陸軍の食事と対比して思うのは、海軍が常に外国との比較をしていることです。もともと軍艦自体が最初は輸入品だし、遠洋航海をしたら外国の港に入るから常に「外国の食事」を意識せざるを得ないわけですが。
 第一次世界大戦で長期航海をした軍艦では缶詰と乾物を中心とした献立が続き、乗組員の食欲は大いに不振となりました。そのため多くの艦船で冷蔵庫の設置が行われました。同時に、潜水艦と航空機での食事の研究も始まります。大正13年には日本初の給糧専門艦「間宮」が就役。でかい食糧貯蔵庫があるだけではなくて、パン・豆腐・うどん・漬け物・菓子類の艦内生産と製氷も行われました。菓子は、羊羹・最中・饅頭・アイスクリームが作れ、特に羊羹が好評で「間宮羊羹」と呼ばれたそうです。
 昭和3年、揚子江方面に出動した遣外艦隊でまた脚気が増えます。原因は、急な出動だったため生野菜などの生鮮食料を積み込めなかったこと。海軍は胚芽米を配ることで対応しています。
 ご馳走の話も出てきます。海軍記念日のメニューがありますが、けっこうなご馳走です。
 可哀想な食事も。潜水艦では、厨房はオール電化ですが、潜水中は艦内で火の気が使えません。だから、潜行中はパンとコンビーフそのままとパイナップルの缶詰、なんて食事になってしまいます。臭いの問題かな、味噌樽も積めないから粉末味噌。「ご飯」を求める声に応じて「缶詰ご飯」も開発されました(昭和14年に制式に「潜水艦航海糧食」として採用されています)。
 「回転式蒸気釜」はなかなか“強面"の恰好です。すごいのは、圧力釜もあること。高圧蒸気で魚の骨まで柔らかくしちゃう、というのは、時間の短縮と摂れる栄養を少しでも増やすためでしょう。配膳が楽になるように、あらかじめ研いだ米麦と水を詰めた配食缶40個をまとめて入れて炊飯器内で炊飯するタイプもございます。陸軍が使っていたものよりも“ハイテク"の香りが漂います。
 レシピは標準化されていました。材料を入れる順番は決められていて、加熱時間も分単位で定められています。調理する人が変わっても常に一定の品質を保証するためでしょう。なお昭和初期の佐世保海兵団の「副食調理標準要項」で「甘煮」とされているのは明らかに「肉じゃが」です。ハムサラダではジャガイモの調理に10分必要なだけで簡単そうですが、マヨネーズ製造に30分を要す、とあります。自家製のマヨネーズだったんですね。
 「水」も重要なファクターです。大型艦には大型タンク(「清水庫」と呼ばれます)が設置されるだけではなくて海水から真水を作る「蒸留水製造装置」が搭載されていました。石炭動力の場合、石炭1トンで真水4〜5トンが製造できたそうです。なお、水洗トイレで流されるのは海水です。
 帆船時代にイギリスの船員にはラム酒が振る舞われていましたが、その流れかな、日本海軍では「衛生酒」が振る舞われることがありました。気温が零度以下や重労働、衛生上必要な場合に、泡盛・ラム・ジンなどが少量提供されています。
 戦争によって食糧事情が悪くなり、さらに缶詰の生産も難しくなると、「紙製缶詰」の製造が試みられます。今のレトルトの御先祖かな。さらに「脱水缶詰」も製造されましたが、これはフリーズドライの御先祖。そういえば缶詰自体が、ナポレオンが戦争用の食料保存方法として開発を求めた結果生まれたものでしたよね。戦争が人間に良いことをする場合もある、ということかな?


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