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2018年11月22日07:24

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美しい所作

 襖を開ける前にきちんと両膝をつくとか、和室を歩くときに畳の縁を踏まないとかを見ると、所作の美しさを感じることがあります。そういえば野球場で、守備につく選手やマウンドに向かう投手がラインを踏まずに跨いでいるのをよく見るのですが、これも日本的な「所作」に入るのでしょうか。それともグローバルスタンダード?

【ただいま読書中】『サラの柔らかな香車』橋本長道 著、 集英社、2012年、1200円(税別)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/408745228X/ref=as_li_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=408745228X&linkCode=as2&tag=m0kada-22&linkId=3215dc8120c22e244422255e62d93d58
 数ページ読んだところで、著者が書いた『奨励会』を先に読むのではなかった、と私は思います。この小説、著者の略歴なんかむしろ知らない方が、絶対に面白く作品世界に突入できます。
 主人公の「橋元」は、著者の分身、というか、完全にクローンです。将棋の奨励会に数年在籍で自分の才能に見切りをつけて辞め、大学に行ってあとはなんとなくぶらぶら。将棋雑誌にちょっと記事を書いていて、女流名人戦の観戦記を書こうとしている、ここからはフィクションです。
 ブラジルからやって来た金髪碧眼の少女サラは、将棋の「才能」を持っていました(英語だったらこの「才能」は、ゴシック体ですべて大文字で書かれるところです)。回りの人間たち(将棋のプロやセミプロたち)には、彼女の差し手は非合理的で意味がわからないものです。しかし、将棋を覚えて3年で、女流名人のタイトルに挑戦できるところまで昇ってしまったのです。まだ13歳なのに。
 おや、いつの間にか小説の語り手が、瀬尾という人になってしまいました。サラについて語る前に女流名人の萩原塔子について語ろうとして、いつのまにか誰がメインの語り手かが曖昧になってしまったようです。
 香車は「柔らかい」ものではありません。俗に「槍」というあだ名をつけられた駒で、一直線に相手を刺しにいく駒です。ただ、そこに「ウィトゲンシュタイン」の「(柔らかい構造を持つ)言語ゲーム」が加味されることで、香車が、あるいは将棋そのものが“柔らかく"なってしまうようです。ともかく、公園で登校拒否をしていたサラに、ふつうの言語コミュニケーションが取れない瀬尾は、まず五目並べを、ついで将棋を言語ゲームとして教えようとしたのです。
 おっと、語り手がまた橋元に戻ってきました。なんだか枠構造になっていたようです。さらに
サラの魔術的な過去が軽く語られ(ここにはマジックリアリズムの影響が?)、小学生のサラは将棋に関して共感覚で対峙しているのではないか、というへんてこりんな仮説がサラに将棋を教えている人たちによって立てられます。
 天才少女サラは将棋盤に「世界」を見ているようです。様々な駒の配置や微妙な動きによってその「世界」はざわめき流れ変貌します。その世界にサラは介入しているようです。
 「才能」や「天才」について言葉と常識で述べることは、なかなか難しいものです。本書もそれに成功しているとは言えません。ただ、その難行に挑み、雰囲気だけでも伝えることには成功しています。私が同じことに挑んだとしてもここまではできなかったでしょう。というか、最初から挑んではいないのですが。


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