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2018年11月18日11:31

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いじめについて考えてみた

「哲学 Φιλοσοφια」というコミュで、いじめについて議論しているトピックスがある、
そのなかで「学校に自動小銃を持った警官を配置」するというような極論が出て、あきれてしまった。不条理を一挙に解決したいという気持ちは分からないでもないが、いじめは決してなくならないという諦観をもつことも必要だと思う。
人は完全ではない。力があれば他者より優位に立ちたいという欲求を常に持っている。状況次第で、誰もがいじめたりいじめられたりする可能性がある。子どもの世界は一種の野生状態であるから、いじめが不健全であるとは一概にいいがたいのである。むしろいじめたりいじめられたりする経験を通して、人は社会性を身に着けるとさえ言える。
問題はいじめが先鋭化・固定化しやすいということだろう。義務教育で強制的に子供たちを学校という枠の中に押し込めておくことは、本来極めて不自然なことである。いじめられて学校に行きたくないという子供には逃げ場が絶対に必要である。「学校に行かなくてもよい」という選択肢へのハードルはもっと下げられるべきだ。

過度にいじめられた人間は、ル・サンチマンをなかなか解消することはできない。贖われることのない補償をもとめて、社会に対して厳しい規矩を押し付けようとする。それが、「学校に自動小銃を‥‥」というような意見になるのだろうと思う。暴論と言っても良いのだが、無視できないのは、このような意見が高じてポルポト的全体主義につながるからだ。人間は本来潔癖には生きられないのに、なぜか思想的には潔癖を求めてしまう動物である。中庸とはその極端性を戒める考え方でもあるのだろう。

いじめという視点から見ると、藤子不二雄は興味深いマンガ家である。藤子不二雄F氏はおそらく幸せな子供時代を送ったのだろう。「ドラえもん」にはジャイアンとスネ夫といういじめっ子が登場するが、彼らは決して悪人としては描かれていない。登場人物はすべて「健全」な子供達であり実は仲良しでもある。やがて健全な大人としてお互いの子供時代を懐かしく語り合えるような将来が透けて見える。
一方の藤子不二雄A氏の方は、少し子ども時代のいじめに対するル・サンチマンが感じられる。そのことについては過去に一文をものにしたことがある。(https://ameblo.jp/toorisugari-ossan/entry-11748385781.html
しかし、ここで強調したいのは、二人はかなり違う境遇の元に育ちながら、マンガを通じて親友となり、立派な社会人として自立するに至ったいうことである。A氏もかつてのル・サンチマンを乗り越えて、「少年時代」という素晴らしい傑作に結実させている。

みんな苦労して大人になる。静観してよいというわけではないが、不条理は決してなくならない。それが無常の世界であるということだろう。
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