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2018年10月04日06:57

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裏付けは何?

 私のパスポートには「日本国民である本旅券の所持人を通路故障無く旅行させ、かつ、同人に必要な保護扶助を与えられるよう、関係の諸官に要請する」と書かれていますが、この要請の「裏付け」は何でしょう? 古代ローマ帝国の「パスポート」には「この人間に害を与えることはローマ皇帝に喧嘩を売るのと同じだぞ」という意味の文言があったそうですが、今の日本で「世界」に何かをお願い(または強制)する「力」の「裏付け」って、何でしたっけ?

【ただいま読書中】『江戸のパスポート ──旅の不安はどう解消されたか』柴田純 著、 吉川弘文館、2016年、1800円(税別)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/464205832X/ref=as_li_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=464205832X&linkCode=as2&tag=m0kada-22&linkId=5ac40c1ddc377dd8ccaa6cdc607d8972
 旅先で行き倒れになりかけた女性の実例がまず紹介されます。この人は、旦那寺が発行した「往来手形(往来一札)」を所持していました。往来手形の内容は「氏名、旅の目的、身元保証、病気・病死の場合にはその地の作法で処置して欲しい」などで、それを見た村役人は藩に届けた上で国元までの「町在継送(宿場と村々をつないでの移送)」の手続きを取ります。「町在継送状」が本人に添えられて村から村へと引き継がれ、結局この例での人は無事(自己負担なしで)故郷にたどり着き、後日国元の村役人から「礼状」「往来手形の写し」「町在継送状の原本」がセットで最初の村に送り届けられています。
 『犬のお伊勢参り』で「お伊勢参りをする犬」が村から村へ次々きちんと送り届けられたことが紹介されていて驚きましたが、江戸時代の日本には自力では移動困難な人が申し送りをつけて安全に送り届けられるシステムがあったからそれが犬にも適用されていた、ということなのでしょうね。
 著者はこの「往来手形」が機能するシステムを「パスポート体制」「旅行難民救済システム」と見なしてその研究をしています。
 形だけ見たらこの「宿送り」のシステムは「とても良いもの」に見えます。しかし、現地の役人にとって「行き倒れになりかけの者」は「自分に面倒をかける者」でもありました。だから碌な看病もせずにさっさと他領に押しつけることもあります。それが「生類憐れみの令」に引っかかることで、話がややこしくなります。「病人の半強制的な遺棄」が禁止されたのですが、「紛らわしい例」がいくらでも生じるからです。結局藩によって対応は分かれてしまいます(たとえば加賀藩は「来る者は拒まず」、紀州藩は「宿送りは一切禁止」、西国では「受け取り拒否」の藩もあったようです)。幕府はそういった各藩の対応を踏まえて、元禄、享保、明和と次々きめ細かい対応を定めた幕令を出していきます。それに応じて各藩では「宿継ぎ村継ぎ体制」が整備されていきました。18世紀には参詣人などが往来手形を持って旅することが一般的となり、それが「宿継ぎ村継ぎ」と組み合わさることで「パスポート体制」が成立することになります。ただ「体制」とは言いますが、公的なシステムと言うよりは「個人の善意と地域共同体の互助システム」をアテにして成り立っている「システム」と言う方が正確かもしれません。
 江戸初期に主に旅僧がもつ「捨往来」という手形は「旅先で死んだらそこに葬ってくれ。国元に知らせるには及ばない」という、なかなか強烈な文章が書いてあります。「出家する」とは「そういうこと」だったのでしょうか。
 旅人が携行するようになった「往来手形」も、現存する最古のもの(1725年)は、この捨往来と似た「死んだときには……」がありますが、後に定型化される「困難遭遇時の救援要請」はありませんでした。「水盃」の意味がよくわかります。
 往来手形ははじめは村役人や菩提寺が本人と相談して発行していました。しかし幕府は天保十四年(1843)に「村役人から代官領主地頭に願い出て許可を得てから発行」と定めます。これは「人返し令」との関りから、移動する人間の数を減らすための政策です。さらに「関所改めで往来手形を必ず確認」とも定められました。「パスポート制度」が地方自治から中央集権になったみたいです。
 では実際にどのくらいの人が旅先で倒れていたのでしょう。田辺領に残された詳しい記録から著者はざっと計算して、日本全体で1年に1000人は旅行難民として救済されていた、と推定しています。
 義絶者、出奔者、乞食などは「帳外者」で「パスポート」とは無縁でした。当然行き倒れてもお世話はしてもらえません。身分制度とは違う論理がここでは働いています。
 明治政府は、国内旅行に関してはじめは江戸時代の習慣を踏襲していましたが、明治五年には「国内旅行に鑑札は不要」と「自由化」を宣言しています。その後も行旅死亡人に関する規定の改定が繰り返され、江戸時代の「パスポート体制」が完全に廃止されたのは明治十五年のことでした。
 ここで本書が終わるのか、と言ったら、違います。ページ数で言ったらまだ6割くらい。ここから「乞食死」「無宿」「偽手形」など「パスポート体制の影」について、面白い記述がどんどん登場します。
 「無宿(戸籍外の存在)」になる(する)ためには「追放」や「義絶」という手段がありましたが、天保以後「義絶」が急増します。飢饉で世情が不安定となりふらっといなくなる人が増えました。ところが当時は「連座」「緣座」の世界ですから、よそで悪さを働いたら家族にも責任追及(あるいは弁済の義務)が及びます。だから後難を怖れて涙をのんでさっさと義絶、ということだったようです。義絶者で一番多いのは二十代、三十代と十代がそれに続きます。本書に紹介された御定めを見ると、連座となった家族・親類・町役人の負担は莫大です。だから問題のあるものはなるべく早く義絶して見捨てることになったのでしょう。家族の情は別としても、十代であっても地域にとっては貴重な労働力です。それを切り捨てるのは地域の活力を削ぎます。しかしそれでも義絶しなければならなかったところに、幕末期の悲しい状況が現れています。
 なお、水野忠邦は「義絶帳外」を「道徳上の問題」と捉えていました。松平定信は「天災による一時的な現象」と。人々にとっては生活の根本に直結する切実な問題だったのに、この認識のずれが彼らの「改革」を失敗に導いた一つの理由でしょう。
 「江戸のパスポート体制」には「弱者救済」の観点がありました。では「現代社会のパスポート体制」には? 難民がどんな扱いを受けているか、を見ると、そこには少なくとも「弱者救済」はなさそうです。もしかして私たちは、江戸時代の人間より「弱者救済」の点で落ちぶれてしまっています?


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