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2018年08月27日07:11

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精神力

 スポーツの世界で「精神力」を力説する人がいますが、私はそれに対して否定的な見解を持っています。もし精神力ですべての勝負が決まるのなら、肉体的な鍛錬なんか不要になっちゃうでしょ? 筋肉トレーニングや動体視力のトレーニングなどは無駄で、寺で座禅でも組んだ方が金メダルに近くなる。
 ただ「例外」が二つある、とも私は考えています。
1)体力や技術が互角で試合がぎりぎりまでもつれている場合。この場合には精神力の差が勝負を決めるでしょう。
2)チーム競技で、個々の力では劣っていてもチームワークによって勝負をする場合。
 ……他にあるかな?
 どちらにしても「体力・技術」は各個人の許容範囲一杯まで上げておくこと、は大前提ですが。

【ただいま読書中】『敗れても敗れても ──東大野球部「百年」の奮戦』門田隆将 著、 中央公論新社、2018年、1600円(税別)
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 昭和20年1月、最後の官選知事島田叡は大阪から沖縄に赴任しました。地上戦が始まる直前のことです。戦場となった沖縄で、県民を守るために食糧確保などに奔走し、台湾や沖縄北部への疎開を進めて20万人の命を救ったと言われています(対馬丸撃沈などを受けて軍が止めていた九州への学童疎開も再開させました)。そして6月、摩文仁の激戦地で消息を絶ちました。遺骨は見つかっていません。彼は「沖縄の島守」と今でも慕われているそうです。(ちなみに前任の知事は、那覇の大空襲後、自分自身に本土への出張を命じ、その出張中に香川県知事を拝命しています。つまり、一人だけとっとと逃げたわけ)
 負ける(死ぬ)とわかっていて、なぜ赴任し、なぜそこで全力を尽くしたのか。著者はまずそのことに疑問を抱きます。そして島田が東京帝国大学野球部で活躍していたことを知り、著者の興味は「東大野球部」へと向かいました。東大野球部もまた「負ける」とわかっていて全力を尽くし続けています。「何か」が“そこ"にあるのかもしれない、と。
 島田は神戸二中で俊足巧打の外野手として鳴らしていました(陸上部の助っ人として大会に短距離の選手で出るくらい足が速かったそうです)。第三高等学校(現在の京都大学教養学部)、東京帝大でも一目置かれる野球選手でした。そして高等文官試験に挑むため退部を申し出たところ、回り中が「君に辞められたら部が成り立たない」と説得。というのも、当時東京「五大学リーグ」が最後の「六校目」をどこにするか検討中で、参加の条件が「対外試合の成績」だったのです。島田が抜けたら東大の成績ががた落ちになることは明らか。そこで島田は、高等文官試験の受験を1年延ばして、野球に専念することにします。大正13年10月23日、京都帝大(学生、実業団の中でも強さを知られた強豪チーム)との試合で島田は決勝点を奪い、翌年東京帝大は五大学連盟への加盟が認められました。卒業後島田はまず下級官吏として仕事をしながら受験勉強をし、結局試験に合格して内務省に入っています。
 沖縄で、島田は県民たちに「生きろ」と命じます。そして、壕の中に折り重なる死体のそばを通る度に合掌を忘れませんでした。義と勇の人、という印象です。
 「野球」は東京開成学校で始まりました。この学校はのちに東京医学校が合併して東京大学となりますが、その予科として創設された第一高等学校でも野球は盛んに行われました。明治半ばに「野球最強」は一高べーすぼーる部(ひらがな表記が正式名称)だったのです。忘れてならないのは、当時の「エリート」は同時に「バンカラ」でもあったことです。血の気の多い選手や応援団によって試合は果たし合いの様相を示し、時に血を見ることもあったそうです。ちなみに正岡子規も「ベースボール部」に所属していて「野球」の命名者と誤解されていますが、実際に「野球」と翻訳したのは中馬庚(ちゅうまかのえ:やはり一高べーすぼーる部所属)だそうです。なお中馬は命名者としての功績で昭和45年に野球殿堂入りをしています。
 しかし、早稲田や慶応なども野球に力を入れるようになると、相対的に一高の「強さ」は減退、さらに東京帝大に進んだものは学業の厳しさからほとんどが野球から離れます。ときどきすごい選手が入部してきて、その間は他の大学相手に善戦をするが、長続きはしない、という状態が続きました。昭和21年春、まだどの大学も陣容が整わない中で再開されたリーグ戦は、各カード1戦のみという変則的なものでしたが、東大は4連勝。最後の慶応戦に勝てば初優勝、でしたが、残念ながら0対1で敗戦、準優勝。惜しい。
 そこから東大野球部は長い低迷期に入ります。昭和32年に岡村甫(はじめ)というひょろっとした投手が入部してくるまでは。当時の六大学は、エース杉浦忠、サード長嶋茂雄を擁する立教の天下でした。岡村は「甲子園には出られなかったが、東大ならレギュラーにすぐなれるだろう」と甘い期待で入ってきましたが、東大野球部が頭を使ったきわめて高度な練習をしていることに驚きます。のちに岡村は「東大野球部始まって以来の大投手」と呼ばれるようになり、のちに野球部の監督も務めますが「10年に一人は優秀な投手が入ってくるから、それに備えてチーム力の整備を」とチーム作りをしたそうです。
 そして昭和56年春神宮球場に「赤門旋風」が吹き荒れます。立役者は「普通の投手」の大山雄司。「六大学で野球をしたいが、東大だったらレギュラーになれるかも」と東大を志望した人ですが、彼が入学した昭和53年に東大は35連敗。ただ、大山の同期には「野球がやりたいから頑張って東大に入った」選手が数多くいました。そしてこの学年が力をつけるにつれ「何か」が起き始めます。なお、この世代のレギュラーの野手のうち6人が卒業後社会人で野球をやっています。つまりこのとき東大野球部は「大学野球のレベルでは強豪チーム」になっていたのです。相手をする方は大変です。「東大に負けたら恥」「東大に負けたら優勝できない」状況に追い込まれてしまったのですから。「初優勝」がちらつき始めた立教戦で東大の前に立ちふさがったのが立教のエース野口で、「初優勝」は夢と消えてしまいます。現在NHKのキャスターをしている大越健介は、この赤門旋風の年に入学して「東大野球部は“強い"」と刷り込まれ、主戦投手として8勝(27敗)を上げることになります。
 しかし平成には80連敗も。在学中の4年間、1勝もできなかった人もいます。甲子園のスター(やプロ野球選手の卵)がずらりと揃う他のチームに実力では明らかに劣っていて、それでも「勝つための努力」を続ける人たち。「勝つための重圧」と当時のキャプテンは言っていますが、普通の精神力ではたぶん耐えきれないくらいの精神的な重圧だったことでしょう。連敗記録が86となり「100連敗したら東大は六大学リーグから脱退」なんて噂まで囁かれるようになったとき、新キャプテンは「勝ち点3を目指す」とチーム方針を打ち出します(そのためには最低6勝が必要)。部員はみな驚きますが、同時にその目標を達成するためには何をしたら良いだろう、と考え始めます。そういえば桑田さんが特別コーチで東大チームを指導したのはこの時期だったのを私は覚えています。
 平成27年94連敗で迎えた法政戦。本書ではまるで実況中継のように試合経過を描きます。はらはらドキドキの試合展開を読んで、私は静かに興奮します。
 強豪私学のチームは「1勝」で興奮や狂喜乱舞はしません。ならば東大野球部が“それ"にそんなに重きを置くのは、なぜでしょう? おそらくそれが「野球」なのでしょうね。野球の魅力の「原点」を、私は本書で再確認できたように思います。


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