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2018年07月13日07:13

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缶コーヒー

 缶コーヒーがブームになった頃「砂糖なしの缶コーヒーがないのは、コーヒーは酸化しやすいが、砂糖が抗酸化剤として働くからだ」と聞いたことがあります。ところが最近は、微糖とかブラック(の砂糖抜き)なんてものもあって、じゃああの時の「砂糖が必要な理由」は何だったんだ?と私は思っています。本当に、何だったんでしょうねえ?

【ただいま読書中】『三浦義武 缶コーヒー誕生物語』神英雄 著、 松嶺社、2017年、1500円(税別)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4879843598/ref=as_li_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4879843598&linkCode=as2&tag=m0kada-22&linkId=5718e80f8162978bd5669808b678ce79
 大正9年(1920)に浜田中学校を卒業した三浦義武は早稲田大学法科に進みますが、「のぼせ」の性格があったせいか、学業には興味を示さず、まずお茶の研究をし「緑茶にヴィタミンあり」という論文を発表し、静岡茶を販売する三浦園本舗を開きます。しかしこんどは「コーヒーの研究」に「のぞせ」て店を畳んでコーヒー販売店を始めます。彼独自のコーヒーの淹れ方は通の間で評判になります。昭和7年(1932)日本橋の白木屋デパートは火事となり(「和服の店員が和服の裾の乱れを気にしてロープで降りようとせず多数焼死、以後女性が下履きを履くようになった」という俗説がある火事です。ただこの俗説には根拠はないそうです)、デパート再建のために世間で評判の「三浦義武のコーヒー」(小説家の片岡鉄平によって「カフェ・ラール」と名付けられました)を楽しむ会がデパートの食堂で昭和10年から開催されました。小説家の小島政二郎は「コーヒーに酔ったなんて、あとにも先にもこの時きりだ」と絶賛です。非常に濃厚でコーヒーのあらゆる要素がすべて抽出されていて、方法は他人には見せなかった、というのですが、もしかしたら「一度淹れたコーヒーを新しいコーヒー豆をひいた粉に注ぐ」といったテクニックかな? コーヒーを楽しむ会は大好評でしたが、大蔵省から「敵国の飲み物を普及させるのは国賊だ」と叱られて会は中止となります。生豆の輸入も止まり、三浦は銀座のコーヒーショップ「ヨシタケ」も閉じざるを得ませんでした。
 浜田の実家に戻った義武は、家を継ぎ村長も務めますが、公職追放や農地解放で多くのものを失います。そこで「コーヒー」への「のぼせ」が復活します。
 世界初の缶コーヒーは昭和33年(1958)大阪の外山食品の「ダイヤモンドコーヒー」、次は翌年の「コーヒードリンクス」(明治製菓)とされています。ところが著者が調べると、「ダイヤモンドコーヒー」は「出荷予定」の広告だけで販売実績がなく、「コーヒードリンクス」は試験販売だけですぐに販売中止、社史には記録がありません(そういえば私も明治製菓の社史は以前読みましたが、缶コーヒーのことは書いてありませんでしたね)。その原因は「コーヒーによる缶の腐食」。三浦義武は昭和38年(1963)に電気メッキの缶を特注し、2年間の保存試験をして品質が保持されることを確認してから「ミラ・コーヒー」を発売します。これが大ヒット。マスコミでも次々大きく取り上げられますが、これは「広告戦略」というより、友人知人(一番有名な人は司馬遼太郎)が勝手に「広告」をしてくれたためのようです。ミラ・コーヒーは売れに売れます。
 三浦は特許を取りませんでした。仕入れは現金払い、しかし販売は掛け売りを認めます。当然食い物にされます。この「当然」が自然に出てくるところが、資本主義社会の悲しい面ですね。結局資金繰りがつかなくなり、「ミラ・コーヒー」は市場から姿を消します。翌年の大坂万博で、三浦が豆を仕入れていた上島珈琲が「コーヒーオリジナル」という缶入りコーヒー乳飲料を大ヒットさせます。
 三浦は喫茶ヨシタケで「美味いコーヒー」を淹れ続け、そしてひっそりと亡くなりました。
 平成27年浜田市は「ヨシタケコーヒー認証制度」を始めました。三浦義武がコーヒーに込めた思いは、受け継がれています。


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