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2018年01月25日22:40

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人はなにかを信じて生きる

毎日のニュースを見ていると、どうしてこんな見え透いた詐欺話に人は引っかかるのだろうと思うことがよくある。また、いわゆるカルトと呼ばれるインチキ宗教をどうして人は信じたりするのだろうとも思ったりもする。

他人から見ればばかばかしい話でしかないが、当人にすれば正当な根拠があるということなのだろう。つきつめてみれば、知識に対する「正当な根拠」というのが厳密には定義できないということがある。

つまり、人はほどほどの正当な根拠をもとになにかを信じるしかないのである。現実に存在する宗教はどれを見ても特殊な物語性を伴っていて、異教徒から見ればとても普遍性を備えているとは言えないものばかりである。それにもかかわらず、宗教を信じることそのものはどの民族にとっても普遍的である。

宗教なんて非科学的だから信じないと言っている人も、実は科学法則がなぜ成立しているかその根拠を知りはしないのである。突き詰めていけば、この世界がこのように成り立っている根拠というものはだれも知らない。そういう意味で、人が宗教を信じることの妥当性というのは確かにあると言える。無神論さえ一つの信仰なのだ。

デカルトは暖炉のそばに腰かけて紙を一枚手にしていた。そして自問する、「私は暖炉のそばに腰かけて紙を一枚手にしている、と私は知っていると言えるだろうか?」と。「暖炉のそばに腰かけて紙を一枚手にしている」そのありありとした感覚も、それが夢の中のできごとだとしたら、それを知っているとは言えないと彼は考えた。それを知っていると言えるためには、自分が夢を見ていないということを知っていなくてはならないと考えたのである。これを「デカルトの懐疑」という。

知識が知識であるためには「自分が夢を見ていないということを知っていなくてはならない」、というのはとてつもなく高いハードルである。もし、自分が夢を見ていないということを検証する手段があったとしても、その検証自体が夢の中のできごとでないことの保証が得られないと駄目だからである。つまり、私たちはどうしても「デカルトの懐疑」を克服できない。

というわけで、私たちはこの世界に関しては100%絶対の知識というものを得ることはできないという論理的結論を得る。だからどうだと言いたい気持ちになるかもしれないが、とにかく哲学者たちは膨大な知的エネルギーをこの問題に費やしてきて、今なお明解な結論には到達していない。

一つ言えるのは、この世界に対する信頼というものが必要なのだと私は思う。哲学者は論理による足場を欲しがりがちであるが、この世界の根源はどう考えてみても論理では割り切れない、とても神秘なものである。どう考えてみても、私たちが生きていくには信じるしかないのだと思う。
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