mixiユーザー(id:64140848)

2018年01月13日11:16

112 view

世の中を陽炎と看よ

一般に仏教の空観は、「すべてはまぼろし」のようなニュアンスで受け止められていることが多い。「世の中を陽炎と看よ」という言葉をそのように受け止めれば、どのようなことがあっても心の静寂が得られるというのだ。

私に言わせれば、そのような「心の静寂」にどのような価値があるのだと言いたい。龍樹の言葉だからといってなにもかも鵜呑みにしていいはずはない。仏教の教説には多くの人々がかかわっている。手っ取り早く信者を獲得するためにはいわゆる方便も言うし、中にはでたらめな言説も混じっているとみるべきだろう。空観が世界のリアリティを損なうようなものであるなら、仏教にも人生にももともとリアルな価値はないということになる。

あくまでこの世界の喜び悲しみはリアルなものであるべきだ。空観はそのリアルさを否定するものではない。その絶対性を否定するのである。世が無常であるからには、絶対的なものは存在しない。愛する人ともいつか別れなければならない。それがいかに不条理なことであっても、受け止めなければならないという諦観をもつ、ということが釈尊の「執着を断て」という意味である。

どれだけ修行しても悲しいものは悲しい、それが事実である。鈴木大拙居士のように修業を積んだ方でも、親友の西田幾多郎が亡くなったときには、傍目も気にせず子供のように泣きじゃくったという。しかし、大拙居士はいくら悲しくとも、キサー・ゴータミーのように愛する人を生き返らせようとはしない。悲しみは受け止めるしかないのである。悲しみながら、親友のために泣けるということが自分の幸せであったということをかみしめているはずである。それが仏教的諦観をもつということであろうと思う。
1 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する