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2017年08月13日16:09

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粘るバッター

 野球の試合で、粘るバッターがカット打ちでファウルを積み重ねていくと解説者が「これだけ粘られたら、ピッチャーは投げる球がなくなる」と言います。たしかに何を投げてもファウルにされるとピッチャーは困ります。だけど逆にバッターの方もカット打ちばかりしていたらフルスイングができなくなるという悪いくせがついてしまうんじゃないでしょうか。「ファウルを何球打つか」よりも「絶好球を見逃さずに(あるいはカットせずに)フルスイングする」ことの方が得点を入れるためには重要なんじゃないかな。

【ただいま読書中】『空白の天気図 ──核と災害』柳田邦男 著、 文藝春秋(文春文庫)、2011年、790円(税別)
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 戦争に負けて、南方からの気象データは激減し、特に台風に関する情報は得にくくなっていました。
 昭和20年9月17日、台風に慣れている枕崎の人たちも恐怖を感じるくらいの凶暴な台風が突然やって来ました。台風の目に入ったとき枕崎観測所の気圧計は916.6ミリバールという世界的にも低い値を示しました。なんとか中央気象台にこのデータを打電して日本中に警告しなければなりません。しかしすべての通信線は途絶していました。
 東京で描く天気図は、九州南部が大きく「空白」となっていました。台風被害のため通信が途絶した地域です。阪神淡路大震災や東日本大震災のとき、一番揺れたところの震度がなかなか表示されなかったことを私は思い起こします。そしてその「空白地域」は台風の進行に合わせて少しずつ北上していきました。死者行方不明合わせて3700人以上という大きな被害を出した枕崎台風の上陸です。そして、広島県では死者行方不明2012人でした。
 ここで話は戦前に戻ります。戦争が迫り、気象台の組織は改変され「観測精神(科学者の心によって気象観測や記録に邁進する)」は「軍人精神」に置き換えられていきました。開戦によって天気予報は中止(敵に“情報”を流さないため)、気象データはすべて暗号化されて通信されるようになります。物資の不足から観測業務にまで支障が出るようになります。そして8月6日、爆心地から少し離れた江波山の広島気象台も大きな被害を受けました。建物は幸い無事でしたが、衝撃波で窓ガラスはすべて吹き飛んで人体に突き刺さり、無線機は壊れて通信は途絶、傷ついた(あるいは無事だった)職員は、燃えさかる市街地を呆然と眺めることになります。少しずつ市街の様子がわかりますが、やがて職員たちも謎の“伝染病(急性あるいは亜急性の放射線障害ですが、当時はそのことはわかっていませんでした)”でばたばたと倒れます。そこに台風が直撃したのです。台風の中心は広島市の中心から西15kmの所を通過しました。九州と山口では風害が主でしたが、広島では水害がひどく、市内で原爆で破壊・炎上した橋が8橋だったのに対して、この台風で流出した橋は20に及びました。
 原爆と台風被害という世界でも類を見ない二重災害に対して、傷ついた広島気象台は「観測精神」で立ち向かいます。自分たちの生存さえ怪しいのに、とにかくデータを残そうとしたのです。
 台風の中心は宮島にも山津波を引き起こしていました。そして対岸の大野でも山津波が発生し、原爆症の患者が多数収容されていた大野陸軍病院を直撃していました。広島気象台の調査員はそこで、京都帝国大学の原爆災害調査団が陸軍病院を拠点に活動していて台風で遭難したことを知ります。
 京都大学も理研と同じく原爆研究をしていた関係か、大本営の発表前に広島の「新型爆弾」が原爆であることを知ってすぐに研究調査班を派遣していました。一行は8月10日には広島に入り土や馬の骨からベータ線を検出、「原爆の疑い」は「原爆に間違いない」という確定になります(当時「アメリカは普通の爆弾で爆撃して同時に放射性物質をばらまいて原爆と見せかけている」という説もあったのですが、さすがに馬の骨にまでは細工はできない、ということでその妄説はすぐ消滅しました)。
 しかし、広島のバラックにいた被災者たちと同じく、大野の旅館と陸軍病院にいた京都大学調査団も「台風が来る」ことは知りませんでした。人々は、原爆と同じく、台風にも不意打ちを食らったのです(広島気象台は通信線がまだ復旧しておらず、気象台の上に警報の幟を揚げる以上のことができない状態でした)。そのため、何の備えもできていなかった調査団は、多数の死傷者を出してしまいました。
 「天気予報」はかつては「当たらないものの代表」でした。しかしそれは「100%の正しさ」を求めるから「当たらない」わけで、だったら「なくても良いものの代表」かと言えばそうではないでしょう。枕崎台風では、戦争で通信線がダメージを受けていなければ、枕崎からの第一報が他の地方に知らされたでしょうし、ローカルの天気予報があればあれだけの死傷者はでなかった可能性が大です。つまり枕崎台風の被害の何割かは戦争と原爆がもたらした、と言えそうです。
 戦時下でも戦後の混乱の中でも、きちんとデータを記録し続けた人々がいました。さて、我々はその貴重なデータを自分たちの現在と未来のために活かしているのでしょうか?


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