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2017年06月28日19:00

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土下座の練習

 あるところで少年野球の練習を見ていると、なんともひどいコーチでした。いや、暴力を振るったりはしないのですが、守備でエラーをすると「土下座して反省しろ」と怒鳴るのです。言われた子供は即座に土下座して「済みませんでした」と大声でがなり立てます。
 で、この「土下座」で、この子供は一体何が上手くなるのでしょう? グラブの使い方とか体の正面で取ることにこだわらずにノックの球が飛んできた方向と次に送球する塁との関係を考えていかに合理的な姿勢で捕球するか、とかをきちんと教えないと、結局同じ状況ではまた同じエラーをするだけだと私には見えました。
 あれが「野球の練習」ではなくて「土下座の練習」なのだったら、納得なんですけどね。

【ただいま読書中】『ダンケルクの奇跡 ──イギリスの大撤退作戦』A・J・バーカー 著、 小城正 訳、 早川書房、1980年、1600円
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 第一次世界大戦後、世界は「平和」になったのではありませんでした。次の戦争の予感の下にずっと生き続けていたのです。しかし英仏は世界大戦で被ったあまりの人的被害に怯え、“次の戦争”では英海軍の経済封鎖と仏陸軍の守備(鉄壁のマジノ線)とソ連との挟み撃ちによってドイツと“戦う”つもりでした。がっちり守るだけですから、ドイツが熱中していた「電撃戦」に対しても興味はありませんでした。
 ドイツはオランダに電撃的に侵攻。それに対して英仏連合軍はベルギー軍と協力して対抗するためにマジノ線の北端に集結します。それを知ったヒトラーは大喜び。「突破不能」のアルデンヌの森を抜け「通過不能」のミューズ川を渡っての奇襲の成功が保証されたのです。
 空でもドイツ軍は圧倒的に優勢でした。イギリスの爆撃機は高射砲やドイツ戦闘機にばたばたと落とされ、イギリスの戦闘機は善戦をしていましたが、損害は増える一方。前線からの増派要請にイギリス空軍大将ダウディングは「ハリケーン戦闘機部隊は国外では十分に戦えず、この闘いで陸軍は負ける可能性が高い」ことを根拠として増派をしないことを決定します。おそらくこれは国内では「苦戦している味方を見捨てるのか」と非難されたことでしょうが、数週間後から英本土上空で始まった「バトル・オブ・ブリテン」でこの空軍部隊が大活躍をすることになります。
 ロンドンでは「敗北」が最初受け入れられませんでした。25万もの兵力を大陸に派遣しているのです。それがドイツの小兵力の戦車部隊に負けるわけがありません。しかし実際には、フランス軍はぼろぼろ、イギリス軍も本来は後方支援の部隊まで再編成して前線に投入してやっと戦っている有様でした。しかしドイツ軍は連合軍の戦力(と戦略)を過大評価し、カレーの港が簡単に奪取できるときにブーローニュに向かってしまいます。それから次はダンケルクが主要目標となりますが、そこで“あの”有名な命令が。「前進停止」命令です。ヒトラーは、ゲーリングの空軍でダンケルクを陥落させるアイデアを採用したのです。
 チャーチルは撤退のための「ダイナモ作戦」を承認します。イギリス軍は、崩壊したベルギー軍とあてにならないフランス軍とともに、昼は戦い夜は退却を繰り返して、ダンケルクの全周防御陣地を段階的に縮小していきます。フランス政府は夢のような計画を立てます。ダンケルクからイギリスに撤退するのではなくて、包囲しているドイツ軍を突破し、占領されているカレーを取り返したら、戦局は逆転する、というのです。それができるのなら、最初からこんな状況にはなりませんってば。
 ダンケルクでは「空軍は何をしているんだ」という批判が渦巻いていました。理由は簡単。ドイツ空軍が圧倒的で、ダンケルク上空でのわかりやすい「戦闘機対戦闘機」の格闘戦が行えなかった。イギリス空軍の活動の場はダンケルクから離れたドイツ軍の勢力範囲だった。そして、イギリス空軍機を見分ける訓練を英陸軍も英海軍も受けていなかった(だから、英艦艇からイギリス機に向かって対空砲火、がやたらと多かったそうです)。
 まずは5月14日、BBC放送は「すべてのモーターボート所有者は届出をするように」と布告します。撤退作戦の責任者ラムジー提督は、使える舟艇は海軍だけではなくて(客船から漁船まで)民間のも洗いざらい使う気でした。
 1940年5月26日、ダンケルクには50万近い英仏軍の将兵がいました。彼らが無事脱出できる確率は非常に低いものでしたが、そこから“奇跡の作戦”が発動します。
 航路は3本設定されます。ドーヴァーまで最短(2時間)のZ航路(65km)はフランス沿岸に近いためドイツ軍の攻撃を受けやすく、X航路(90km)はフランスが敷設した機雷原を通過するもの、ドイツ軍から一番遠ざかれるY航路は145kmもあり急角度の転進を必要としました。さらにドイツ軍は海峡の至る所に磁気機雷を投下しています。船は、ドイツ軍機と機雷と潜水艦と陸上からの砲撃と、危険に何重にも挟み撃ちにされながらピストン輸送を続けることになりました。ダンケルク自体も激しい空爆を受け、街と港湾施設は破壊されます。そこに将兵たちは列を組んで船に乗る順番をじっと待っていました。やがて桟橋が使えなくなると、海浜から乗船するしかなくなります。そこで小さな船が大活躍することになりました。中には、手こぎのボートに数人の兵士を乗せてそのまま海峡を何回も往復した人もいたそうです。大型のモーターボートやタグボートにはルイス機関銃が交付されましたが、これは第一次世界大戦ころのものでやたらと故障が多かったそうです。実際には兵士が手持ちの軽機関銃やライフルで“対空射撃”を実施しました。また、フランスやベルギーの船も参加していたことを忘れてはいけないでしょう。
 天候も“ダンケルクの奇跡”でした。荒れることが普通の英仏海峡が、撤退作戦が実施された9日間、まったく波が立たない状態を維持したのです。だから沈没すれすれまで定員オーバーの人を詰め込んで船は航海できました。
 数回の航海で船員は異常な消耗をしてしまいました。その交代要員の確保とロンドンからドーヴァーまでの輸送も一仕事です。船から降りてくる将兵の受け入れも大仕事です。9日間で33万8226名(うちフランス兵は12万3095名)に対して、宿舎・医療・食糧・衣服などを与えなければならないのです。ダンケルク守備部隊は、交互に撤退しながら戦い続け、ドイツ軍の進軍速度を鈍らせました。しかし、味方が撤退しやすいように頑張れば頑張るほど、自分たちは取り残されてしまいます。ただその“犠牲”は無駄ではありませんでした。無事ドーヴァーに帰還できた将官の中に、それからの数年間で重要な戦いの指揮を執ることになる人がたくさん含まれていたのです。
 ダイナモ作戦をいつ終了させるか、も重要な決断です。1人でも多く撤退させたいのですが、粘りすぎたらドイツ軍が肉薄してきますから撤退要員の損害まで増えます。また、守備で頑張っている部隊も損害が増えすぎる前に降伏させたい。計算では、ダンケルクがドイツ軍に占領されたとき、10万人が捕虜となる、と出ました。
 ダンケルク陥落後、ドイツ軍は部隊を再編成してパリを目指します。フランス軍(と少数のイギリス軍)は「ウェイガン線」で迎撃をしようとしますが、戦う前から結果は決まっていました。「実際には、フランス軍はダンケルクで死んでいたのである」と著者は言います。イギリス軍がダンケルクに“帰った”のは、ノルマンディに上陸してから1年後、ダンケルクから撤退してから5年後のことでした。


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