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2017年02月07日07:13

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広島の将棋指し

 升田幸三さんはプロを目指して家を出るときに「名人に香を引く」(=名人より強くなる)と書き残したそうですし、若くして亡くなった村山聖さんは9歳で「名人になる」と人生の目標を決定したそうです。広島県出身の棋士はユニークな人が多いのか、それとも棋士そのものが最初からどこの出身でもユニークな人が多いのでしょうか?

【ただいま読書中】『聖の青春』大崎善生 著、 角川文庫、2015年、640円(税別)
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 名人を目指していたのに、29歳で夭折した天才棋士村山聖(さとし)の人生のノンフィクションです。今NHKでやっているアニメ「3月のライオン」で「心友」「終生のライバル」と言っては主人公になにかと絡んでくる二階堂が、腎臓病持ちでふくよかな体型ということで、私は画面を見るたびに村山さんのことを連想しています。
 昭和44年、日本が高度成長の喜びを知り、アポロ11号が月着陸を果たした年、広島で聖は誕生しました。幼児期の彼の生活は平凡なものでしたが、集中力は際立っていました。しかし3歳の時、発病。5歳のときネフローゼと診断されます。治療は安静。それで症状はすっと引きます。すると子供は全力で遊びます。再発、また安静。2回目の入院をした6歳のとき、聖は将棋と出会います。それは彼にとって新しい翼でした。病状は一進一退。結局聖は小学校を卒業するまで国立原療養学校(重病を抱えた子供のための施設)で過ごすことになります。日記が一部紹介されていますが、天気は常に「はれ」温度は毎日「22ど」、そして毎日将棋のことが書かれています。「しょうぎのれんしゅう」を毎日毎日施設の中でやっていたのです。読書も大好きでした。戦前の名著『将棋は歩から』は小学校1年で読破、大人向けの将棋雑誌「将棋世界」は2年生から読んでいます。実戦を知らず本だけで将棋を覚えた聖ですが、小学三年生で親戚のアマチュア3段を平手で苦しめるまで腕を上げます。将棋を知らない人のために言うと、アマチュア3段はアマチュアではトップクラスで、県大会に出ても恥ずかしくない腕前です。相手をした大人は聖の天才に震えましたが、聖は自分が勝ったことよりも負けたことの方に得心がいっていませんでした。自分は最善手を指したはずなのに、と。もっと強くなりたい、と聖は念じます。目標は、名人。
 独学では限界がある、と10歳で市内の将棋教室に通うことになり、すぐにアマチュア4段。翌年中国こども名人戦で優勝。しかし全国大会では全然歯が立ちませんでした。
 この頃、中学生でプロになった谷川浩司が21歳で加藤一二三名人に挑戦して名人位を奪取してしまいました。将棋界の何か(経験や貫禄などが最重要視される伝統)が覆された瞬間でした。
 聖はプロになるため大阪の奨励会に入会を決意します。親は反対しますが言うことを聞かず、困った親は親族会議を開催しますが、聖は会議を説得してしまいます。師匠を引き受けたのは森信雄6段。念願の奨励会試験の日、大阪では佐藤康光、東京では羽生善治・森内俊之・郷田真隆・丸山忠久など、後の名人やタイトルホルダーになる錚々たるメンバーも受験をしていました。試験は合格。しかし理不尽な大人の事情で入会は強引に延期をさせられてしまいます。失意で聖は病気がぶり返し入院。同じく失意の森は聖を大阪に呼びよせ、師弟で奇妙な同居生活を始めます。森が最初に聖に教えたのは、将棋ではなくて、自転車の乗り方でした。いや、本当に奇妙です。聖が入院したら森はパンツを洗います。まあいろいろあって、やっと聖は「将棋」に打ち込む事ができるようになり、ぐんぐん昇級昇段をし始めます。しかし、対局で体力を削ると、決まって高熱を出して寝込みます。聖はひたすら眠ることで体力の回復をはかります。将棋で戦うだけではなくて、病気とも戦わなければならない、実にもどかしい状況です。しかし彼の才能は多くの人の目にとまり、その特異なキャラは多くの人に愛されるようになります。そして2段のころ、関西将棋会館では「終盤は村山に訊け」という言葉が囁かれるようになりました。17歳でついに4段(=プロ)に。奨励会在籍は2年11月、体調不良で休会を繰り返したことを考えると、驚異的なスピードでのプロ誕生でした。そしてそれから年度終わりまでの3箇月ちょっとで12勝1敗。人はこう言うようになります。「東に天才羽生がいれば、西には怪童村山がいる」。二人は「地獄のC級2組」をあっさりと勝ち抜いて、肩を並べてC1に上がっていきました。しかし、実際の対局で村山は羽生の凄さを実感します。名人に挑戦する前に羽生という新しい壁が登場したのです。
 羽生はさっさと昇級を続けタイトルも取り、世間の注目を浴びました。その後をひっそりと村山聖は追っていました。対局のたびに体調を崩しながら。羽生はついに24歳で名人に。しかしこの時村山は羽生に4連勝をしていました。羽生に対して、そんな棋士は他には存在していません。
 村山聖はプロになってからずっと途上国の子供たちへの寄附を続けていました。阪神淡路大震災のときも、将棋連盟の寄附の呼びかけに羽生とともに真っ先に応じていますしその金額はとんでもないものだったそうです。自分が子供の時からずっと死に直面し続けていたため、「子供」「命」が関係することに過敏なくらい反応していたようです(命あるものを傷つけたくない、と、殺虫剤をまくことはおろか、散髪や爪切りも嫌がりました)。そして、自分の命を削るように対局を続け、ついにA級に昇格します。次の年度でA級リーグ戦に優勝すれば、名人に挑戦することができるのです。その羽生名人は6冠を制覇して最後に残るビッグタイトル王将位を守る谷川と死闘を繰り広げていました。
 村山の師匠の森と本書の著者は好きなときにお互いのアパートに転がり込むし、村山は東京に引っ越すときに著者にアパート探しを依頼し、合い鍵や預金通帳と印鑑まで預けてしまう、という、非常に濃厚な人間関係にあったようです。村山は将棋にすべてを捧げて、実生活をするところにまで回すエネルギーが残っていなかっただけかもしれませんが。控え室での検討でも、歯に衣着せぬ物言いで場を凍りつかせることはたびたびでしたが、それでも人気があったそうです。村山に邪念がなく、すべてを将棋に捧げていることが“オーラ”として回りに伝わっていたのかもしれません。ただ、麻雀や酒にも命を削るような態度で臨んでいるところには私は感心しませんが。
 また病魔が襲ってきます。こんどは膀胱癌。そして腎不全。大手術を受け、それでも広島の病院から大阪まで村山聖は対局に向かいます。彼にとって将棋を指すことは「生きること」そのものでした。手術などに足を引っ張られてB級1組に転落。しかし膀胱を摘出した身で村山は対局を続けます。ついにA級に復帰。しかし癌が再発。
 彼の人生最後の数局の棋譜は、まるで宝石のように素晴らしいきらめきを放っているそうです。だけど、そこまで素晴らしくなくても良いから、彼には今でも生きていて将棋を指していて欲しかった。


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