mixiユーザー(id:235184)

2017年01月23日07:20

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忠犬

 少し前までオバマに尻尾をふっていた忠犬ポチは、こんどはトランプに尻尾をふるんでしょうか。ずいぶん「ポリシー」が違うような気がするのですが。

【ただいま読書中】『敗者の日本史(6)承久の乱と後鳥羽院』関幸彦 著、 吉川弘文館、2012年、2600円(税別)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4642064524/ref=as_li_qf_sp_asin_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4642064524&linkCode=as2&tag=m0kada-22
 承久の乱について江戸期の頼山陽は『日本政記』で「志ありて謀なし」としました。具体的には「北条を源氏の“敵”に祭り上げたら、甲斐信濃の源氏を朝廷の味方に取り込めたはずだ」という提案をしています。実際に源実朝は文化的には朝廷サイドに立とうとしていました。後鳥羽上皇は「武士はすべて敵」と思っていたかもしれませんが、「一所懸命」の武士たちですから、内部分裂を誘えばいくらでもつけ込む隙はあったでしょう。しかし北条サイドは「朝廷が武家政権そのものを滅ぼそうとしている」と主張して御家人の結束を高めました。
 明治時代、国定教科書では「承久の変」は「あってはならないこと」扱いでした。北条義時は厳しく非難され、明治18年には年表には残されたものの教科書の本文から「承久の変」は消えさります。同時に「建武中興」は明治の王政復古と重ね合わされて高く評価されました。つまり「明治維新」を高く評価するために「建武中興」と「承久の乱(変)」が利用された、とも言えます。興味深いのは、明治〜昭和初期に「歴史上の人物(新田義貞、楠正成、など「天皇の忠臣」)」にも贈位が盛んに行われていることです。「敗者」に贈位することで「歴史」に対して「国家」がメッセージを送っています。その中には承久の変(乱)の「敗者」が十数名含まれていました。
 承久元年、源実朝が暗殺されます。後鳥羽院は「治天の君」として鎌倉に対し「親王将軍を送って欲しかったら地頭に関して譲歩しろ」というメッセージを送ります。鎌倉はそれを拒絶、九条道家の子(母親の血筋が頼朝につながっている)を将軍とします。面目を潰された後鳥羽院は、直属の軍(西面の武士など)を動かすことを考え始めます。
 ついに宣戦布告。鎌倉武士団は「綸旨」に直面して動揺します。しかし、北条政子は「非義の綸旨」と断じることで武士団の結束を固めます。後鳥羽院は「至尊の血統ゆえに自分の言葉は正義、したがってその言葉に皆は従うべき」としました。しかし北条政子は「道理に外れたことを平気でする者は、道理に外れているがゆえにそもそも『君』ではない」との論理構成で対抗したのです。戦力はほぼ1対10。戦争そのものはあっけなく終了してしまいました。結果として、朝廷に味方した在京御家人や西国の守護は次々処分され、三人の上皇と二人の親王が流罪を得ることになります。後鳥羽院は隠岐から帰京することを許されず、隠岐で没することになります。幕府の怒りと警戒はそれほど厳しいものだったのでしょう。
 「敗戦」は、公家には「武力ではなくて文化で生きる」ことを強いました。ただ、それは武家の方にもじわじわと影響を与え続けることになります。本書では「負ける」と「敗れる」を使い分けていますが、京都の公家は、敗れてはいても負けてはいなかったのかもしれません。


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