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2016年06月25日08:06

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山かけは山をかけたもの?

 蕎麦屋さんで美味しくいただいていたら、後方の席に賑やかに女性のグループがやって来ました。別に聞き耳を立てたわけではありませんが、何を喋っているのか丸聞こえです。で、その中で面白かったのが注文の時の「山かけそばの『冷』とととろざる蕎麦とは、どう違うの?」という質問。私の理解では「山かけそば」は汁そばでとろろがかけてあり、とろろざる蕎麦はざる蕎麦の隣にとろろの小鉢が置いてあるもの、だったのですが、店員はなぜかしどろもどろに。面白そうだから、こんどは私が注文してみようかな。

【ただいま読書中】『ステージ・ショウの時代』中野正昭 編、森話社、2015年、4800円(税別)
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 「貧しいが自由を愛し芸術への情熱に溢れている」という「ボヘミアン」のイメージは、19世紀のモンマルトルで形成されました。同じく19世紀、イギリスでは1843年の「劇場統制法」で劇場内の飲食が禁止されると、パブが舞台を設置して娯楽を提供しそれがミュージックホールへと発展します。劇場も娯楽施設化を推進してヴァラエティ・シアターとなりました。窮屈な法律によって文化が発展してしまいました。アメリカでは大規模なレヴューが発展し、ドイツ・オーストリアではキャバレーが発展します。ソ連では政治レヴュー(政治的な正しさを優先したレヴュー)が登場。日本では1870年(明治3年)横浜本町通りに外国人専用の「ゲーテ座」が開場しました。日本人向けは、1908年(明治41年)に有楽座、1911年(明治44年)に帝国劇場が開場します。
 小林一三が宝塚少女歌劇団を創設するときにモデルとしたのは、歌舞伎でした。歌舞伎の長所と短所から学んで、日本を代表する歌劇を作り上げようとしたのです。歌舞伎の女形は「男から見た理想の女を男が演じる」存在です。宝塚の男役は「女から見た理想の男を女が演じ」ます。「理想の存在」を舞台の上に現出できれば、それは人気を呼びそうです。また、昭和46年の「ベルサイユのばら」は公演を重ねるにつれて内部で「宝塚歌舞伎」と呼ばれるようになったそうですが、ここにも「歌舞伎の精神」が顔を出しているようです。
 1920年代の浅草でもっとも観客を集めたのは活動写真でした。しかし27年の金融恐慌と30年の昭和恐慌でフィルム不足となり、映画館は舞踊・ボードビル・レヴュー・バラエティなどを多く上演することになります(もしかして、多くの映画館でスクリーンの前に舞台があるのは、その時の名残?)。関東大震災で打撃を受けた浅草オペラの役者たちもそこに参加します。短パン・ノースリーブで踊るレヴューガールたちの「肉体を強調するエロ」によって、浅草象潟警察署は「エロ演芸取締標準」を通達することになりました。「むき出しの手足」は「エロ」だったのです。
 江戸川乱歩やサトウハチローが「江川蘭子」で結びつけられて登場します。フィクションの登場人物だったはずの「江川蘭子」が現実の女優として登場して“大活躍”なのですが、戦前からすでに「ヴァーチャル」と「リアル」を綯い交ぜにすることで遊んでいたんですね。
 昭和22年に「額縁ショウ」が登場します。私はこれをストリップショーとして捉えていたのですが、実は新宿3丁目の映画館「帝都座」に併設された小劇場で開催された「ミュージックショウ」の一環としての登場で、第1回目ではヌードではなくてちゃんと下着を着けています。しかもカーテンが開いているのは15秒くらいだけ。それでも大評判となり、翌月の「アンドロメダ」では上半身裸でしかも両腕を上に挙げているので「胸」が丸見えとなっていました。この額縁ショウは好評で、公演を重ねるにつれて裸の踊り子が実際に踊るようになります(「裸」はどんどん過激になる傾向があるのかもしれません)。18世紀後半のヨーロッパに「タブロー・ヴィヴァン(活人画)」という娯楽が登場します。聖書や神話の一場面を古代風の衣装を着た俳優が舞台上で「静止画」として再現する高尚なものでした。しかし時代が下るにつれ、「女性を鑑賞する」さらには「裸の女性を鑑賞する」ものになってしまいます。「公衆の面前での裸」がタブーだった時代に、タブロー・ヴィヴァンは「名画や神話には裸の登場人物がいる」を口実として、上流階級の裸体見物の場となりました。それが大衆相手のショウ・ビジネスにも進出します。ただ、裸体とは言っても、モデルはマイヨ(肌に密着する肌色の下着)をつけていて照明を工夫することで本当の裸に見える、という工夫がされていました。これが日本に輸入されて「額縁ショウ」になったわけです。しかし、主催者が警察には「これはエロではなくて芸術だ」と主張し、裸になることをしぶる出演者には「これは芸術だ」と説得しているのには笑ってしまいました。その後の映画で「芸術のためなら脱ぎます」と言う女優が出たのは、ここが“ルーツ”かな。
 昭和7年「松竹少女歌劇」(SKD)が誕生、12年に浅草に国際劇場ができそこで松竹少女歌劇は「浅草的ではないもの」を目指します。今は各地に「○○○48」などが乱立していますが、戦前は「少女歌劇」だったんですね。そうそう、「少女」ではありませんが、戦前の日劇ダンシングチーム(NDT)のラインダンスやタップダンスの水準もずいぶん高かったそうです。
 各国のステージ・ショウとして、ロンドン・ベルリン・アメリカ・台湾が取り上げられています。どこの国にもそれぞれの「ステージ・ショウ」(の歴史)があるのは、素敵です。余裕があったら、ゆっくり見て回りたいものです。


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