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2015年11月15日07:31

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予習と復習

 復習は、授業後の場合は記憶の定着・テスト後はミス再発の予防のために行うものでしょう。では、予習の目的は? 実は私にはよくわかりません。何を教わるか、は、授業で教われば良い、と思ってこれまで生きてきたものですから。というか、授業の目的が“それ”でしょ?

【ただいま読書中】『海軍の日中戦争 ──アジア太平洋戦争への自滅のシナリオ』笠原十九司 著、 平凡社、2015年、2500円(税別)
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4582454488/ref=as_li_qf_sp_asin_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4582454488&linkCode=as2&tag=m0kada-22
 「日中戦争は陸軍が暴走することで拡大した」という見方があります。これだと海軍は巻き込まれた“被害者”のようですが、じっさいにはこれは戦後の海軍の宣伝工作によるもので、実際には海軍も日中戦争では非常に積極的な役割を果たしていた、ということが本書では様々な証言の分析を通じて示されます。ただ、本書の目的は「誰が悪者か」を断罪することではなくて「戦争からどのような教訓を得て、それによって次の戦争をどうやったら予防できるか」を考えることだそうです。過去から目をそらして自己弁護ばかりしていたら、また同じことを繰り返すでしょうから。
 まずは上海での大山事件(1937年)。パトロール中の大山海軍中尉が中国軍に惨殺されましたが、その前日から大山中尉には死を覚悟したような不審な言動があります。さらに当日にも普段はおこなわない行動が。著者は「密命で、殺されるために中国軍の基地に向かったのではないか」と考えています。つまり、海軍の中国軍に対する挑発。「密命」に関する証言と、その内容の正しさから、どうも著者の推測は正しいように思えます。
 盧溝橋事件は「偶発」だったようで、だからでしょう、事件後日本陸軍内部では路線対立が激しくおこなわれましたが、大山事件後の海軍の行動は首尾一貫しています。まるであらかじめ“シナリオ”があったかのように。蒋介石に最後通牒を突きつけ、戦力を拡大します。国内世論は「暴戻なる支那を膺懲せよ」と盛り上がります(実際に、死体損壊はひどかったのですが)。かくして南京・南昌渡洋爆撃の計画が発動しました(出撃基地は長崎大村や台湾です)。
 余談ですが、この時の爆撃行の手記に「中国軍の弾は日本の機体を貫けない(だから護衛戦闘機無しで低空爆撃を敢行する)」なんて書いてあるのには、驚きます。対米戦の“予行演習(新鋭の九六式陸上攻撃機の実戦性能テスト)”のはずが、思わぬ大損害を被ってしまったのです。そのため海軍は「戦闘機」の重要性を認識、同年10月には三菱に「十二試艦上戦闘機計画要求書」が交付され、その結果としてゼロ戦が生まれることになります。
 近衛内閣は盧溝橋事件以後「不拡大方針」を採っていましたが、拡大方針の陸軍、および大山事件で策動した海軍に引き摺られて方針を変更します。さらに、政友会と民政党の醜い権力闘争が「統帥権干犯問題」を引き起こし、日本は自滅のシナリオをさらに進むことになりました。
 損害を減らすために南京爆撃は高高度あるいは夜間爆撃となりますが、そのため正確な攻撃ができず、外国人や民間人の損害が増えます。国際的な批判が巻き起こり、日本外務省は爆撃中止を口にしますが、海軍はそれに憤激し、爆撃を継続します。国際社会で日本は孤立していきます。(これまた余談ですが、この時強硬な批判をしていたアメリカが後年ヨーロッパや日本で都市に対する大爆撃をするようになったのは、歴史の皮肉ですね。また、東京裁判でもこの「中国の都市爆撃」は訴追されていません)
 1921年『制空権論』(ジュリオ・ドゥーエン少将(イタリア))では「まず空襲で敵の抵抗力と戦意を破壊してから、陸上部隊が侵攻・占領する」戦略爆撃論が説かれましたが、それを世界で最初に実行したのが日本軍による南京攻略でした。上海派遣軍は南京進軍は予定していませんでしたが、現地軍はイケイケどんどんで進軍、大本営もそれを追認します。37年12月12日、城内に日本軍が突入。海軍航空部隊も激しい空爆を継続します。南京から逃れて長江の45km上流に停泊していたアメリカ砲艦「パナイ号」はアメリカ大使館分室としても機能していて、位置を日本領事館にも伝えていました。さらに甲板には星条旗を大きく描き、特大の星条旗も掲揚。それが繰り返し爆撃されてパナイ号は沈没しました。
 日本海軍側の言い分は「中国人がたくさん乗っているのが見えた」「国旗なんか見えなかった」「事故だ」「陸軍が悪い」。その日駐日アメリカ大使グルーは「ルシタニア号事件(1915年にルシタニア号がドイツ潜水艦に撃沈され、それが世論に大きな影響を与えて2年後のアメリカ参戦の後押しになった)」を想起して日記に記録しています。実際にアメリカでは「Remember the PANAY!」が叫ばれるようになり、それは4年後にそのまま「Remember Pearl Harbor!」に結実することになりました。
 南京占領でも日支事変は終わりません。近衛内閣は「爾後国民政府を対手とせず」と宣言。長期の泥沼戦争を宣言します。陸軍は及び腰になります。長期の負担と犠牲が見えたからでしょう。しかし海軍は意気軒昂でした。自分は大した損害なしに膨大な臨時軍事費を獲得でき、アメリカを仮想敵国とした航空戦力の大拡充に進めるのです。海軍にとって日中戦争は「もっと大きな戦争」に準備するための手段(些事)だったのです。実際に37年度に比較して38年度の臨時軍事費の数字にはびっくりします。そして、陸軍が何をやっているかには無関心に、海軍航空隊は中国軍(のアメリカ機)などを相手にせっせと“実戦訓練”を41年までおこなうことになりました。
 日本の陸軍と海軍がバラバラだったことは、以前から指摘されていますが(たとえば『失敗の本質 ──日本軍の組織論的研究』)、本書を読んでいてこの二つの軍隊は「同じ国の軍隊」というよりは「連合軍」として扱った方が良いのか、と思えました。ヨーロッパ戦線で米軍と英軍(と仏軍)がぎくしゃくしながらも協力して戦っていたのと似た雰囲気かな、と。ヨーロッパ戦線では「共通の敵」がいるからこそ一緒に戦いますが、一番重要なのは「自国の利益」であったわけです。それが日中戦争では「共通の敵」さえいません。そして、一番重要なのは「自国の利益」ではなくて「自軍の利益」。これでは、よほど敵が弱くて幸運に恵まれないと、戦争には勝てないでしょう。ある会社で工場と営業がお互いの足を引っ張り合いながら、他社との競争に勝ち抜こう、というのと同じ。いや、不可能ではないでしょうが……


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