mixiユーザー(id:20556102)

2015年11月06日19:11

1347 view

市原克敏歌集『無限』

不識書院、2004年刊。林間叢書第380篇。

2002年5月に63歳で他界された市原克敏さんの遺歌集。生前に歌集は出されていなかったので、この歌集が市原さんの唯一の歌集である。巻末に、おつれあいの市原賤香(しずか)さんが書かれた克敏さんの闘病記(2001年1月〜)、および、この遺歌集を編纂された村永大和さんの跋文が付いている。1992年から2002年まで、作品が発表された順に市原さんの歌が掲載されている。

僕にとって市原克敏さんのお名前は、「短歌朝日」の編集者として先ず記憶に残っている。市原さんが他界された後、少しの間、後継編集人によって発行されたが、ほどなく廃刊となってしまったのだった。市原さんあっての「短歌朝日」だったのだろう。

今年の6月4日の日記(「まろにゑ」創刊号)でも注記したが、東郷雄二さんのサイトでこの市原さんの歌集を取り上げている。

http://lapin.ic.h.kyoto-u.ac.jp/tanka/tanka/tanka138.html

実に見事な紹介文で、あとはこの東郷さんの記事をごらんください、ということにしてしまってもいいような気もする。

が、おそらく市原さんは、キリスト教(およびその古層としてのユダヤ教)の世界に入り込んで、大いに迷い、悩み、苦しみながらそれを歌にされていたのであろうところ、東郷さんの紹介文はあまりに知的にそれを整理しすぎてしまって、市原さんが立っておられたであろう世界のもやもやとした感じをよく伝え得てはいないのではないか、とも思う。

以下、『無限』より15首。

麗しき女神来たらばさよならさ死すべき我よ死すべき星よ

こじきよみ日本書紀よみあくるよは魔が魔がしけれ苔むす巌

なにごとも自力に非ず他力なりと弥陀の企らみ血の海照らす

ゴルゴタにいやいやながら吊されよメシアよ君はズブの素人

いやらしい女に逢うこそわが望み弾むこころにあの世が弾む

そうならば神は女の方がいい女ざかりのからだがロゴス

ふと在りて既にと言いし魂の在りかいずこぞこの青き空

拝啓と神へ手紙を書きはじめ末尾は投げやり では又いつか

モーツァルトかくのごとくに臨在す死と永遠と女性の上に

足もとに蟻が見えればわれまたぐ時折りわれを何かがまたぐ

室内がザムザザムザと笑いだし笑う理由が室内にない

イミタチオクリスチナ読めば思うかな我の倣わん自爆者イエス

一斉にキリスト者立ち自爆者の頬をし殴る右を左を右を左を

アメリカをアルカイダ殴り殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴れ

抛られたる一ヶはわれの骨となり一ヶはとおく砂上をあそぶ

7首目(ふと在りて…)のような思索的な歌がこの歌集の基調をなすのだが、ここではあえてユーモラスな歌を多く引いた。

2首目(こじきよみ…)、3首目(なにごとも…)。日本的なるものにも仏教的なるものにもわたくしは馴染みませんよ、というスタンスを宣している歌。仏教の象徴として弥陀を持って来たのは、それが最もキリスト教に近いなどとよく言われるからだろう。

4首目(ゴルゴタに…)〜6首目(そうならば…)は、同じページに並ぶ3首。2000年9月に発表された作品より。「メシアよ君はズブの素人」、はい、いかにも。「弾むこころにあの世が弾む」、はい、いかにも。「女ざかりのからだがロゴス」とは、またなんといういやらしくて品のある軽口だろう。

9首目(モーツァルト…)。市原さんはモーツァルトの音楽を好まれたそうだ。巻末の賤香さんによる闘病記の2002年4月26日の項に、《あるとき、病室へ入ってゆくとヘッドホーンで音楽を聴きながら、頭からタオルをかぶって座っていた。どうしたの、と訊くと、「モーツァルトを聞いていると涙が出てしょうがないんだ」》とある。

12首目(イミタチオ…)〜14首目(アメリカを…)は、これもまた同じページに並ぶ3首。2002年3月に発表された作品より。「イミタチオクリスチナ」は、15世紀前半にトマス・ア・ケンピスが書いたのであろうと言われているキリスト教文学の作品。このタイトルは「キリストに倣いて」と訳されるのだそうだ。こんなふうに、この歌集に出てくるいくつかのカタカナの固有名詞を調べて、おお、なるほどと思ったのだった。そんな知見を前提にしながら「自爆者イエス」と言い放ってしまうのが市原さんの真骨頂なのだろう。

13首目(一斉に…)。575777の歌。仏足石歌というやつだ。「右を左を」だけでは足りず、どうしても繰り返したくなったのだろう。「右を左を右を左を」は「右を左を左を右を」とした方が歌のかたちとしては座りがいいが、いや、そうではない、右を打たれたら左を差し出せ、とイエスは言うたではないか、と市原さんは言われたいのだろう。殴っている者たちが「キリスト者」だというのが痛烈な皮肉にして、しかし、ありそうなことだとも思わせるあたりが、キリスト教というものが人心を惑わすゆえんだろう。

15首目(抛られたる…)はこの歌集のラストの歌。2002年5月に発表された8首のラストの歌である。他界されるほんの少し前に詠まれた歌なのだろう。砂上をあそぶのは石だろうか。われの骨も石も同等のものとして置かれ、抛る主体への信も持続していて、寂しいと言えば寂しいが、何かあたたかく寂しい歌である。


【最近の日記】
池田祥子歌集『続 三匹の羊』
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1947428098&owner_id=20556102
「短歌人」の誌面より(88)
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1947370402&owner_id=20556102
11月号「短歌人」掲載歌
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1947297476&owner_id=20556102
9 5

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2015年11月>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
2930