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2015年07月27日06:50

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贅沢の公私

 もしも宝くじの一等が当たったら、贅沢な暮らしをするぞ、なんて夢想をすることもありますが、その賞金をぽんとどこか社会の役に立つところに寄付をする、というのも豪気で贅沢な話ですよね。宝くじは買わなきゃ当たらないし、買っても当たらないのですが。

【ただいま読書中】『酒池肉林』井波律子 著、 講談社現代新書、1993年
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4061491393/ref=as_li_qf_sp_asin_tl?ie=UTF8&camp=767&creative=3999&creativeASIN=4061491393&link_code=as3&tag=m0kada-22
 中国の贅沢三昧についての本です。
 まず登場するのは、古代中国「殷」の天子「紂(ちゅう)」。もともと聡明で能弁で有能な紂が、何でも思うがままになってのぼせ上がったところに出会った美女が妲妃(だっき)。紂は妲妃と楽しむために、一大レジャーランドを作り上げ、そこで「酒池肉林」(池に酒を満たし、木々の枝に肉(当時の最高のご馳走)をかけ、その間を裸の男女を駆け巡らせる)の贅沢三昧を楽しみます。ただ、この「贅沢」は“物量作戦”の贅沢であって、著者は「粗野」と切って捨てます。
 殷の話は、それを滅ぼした周によって残されている(こんなに悪い帝だから反乱を起こして殺したんですよ、という周の自己正当化の検閲が入っている)ので、必要以上に“悪さ”が強調されているのではないか、と私は思っていますが、真実がどうだったのかはわかりません。
 秦の始皇帝は阿房宮という広大壮麗な宮殿を作りました。これはただの贅沢ではなくて、「朕こそが全宇宙の中心である」という主張の表れでした。さらに始皇帝は生死も超越しようと、不老不死の霊薬を求めます。これにも巨額の費用がかかりました。しかし阿房宮は項羽によって火をかけられ3箇月燃え続けたというのですから、これまた贅沢な焚き火です。
 隋の二代皇帝煬帝(ようだい)は、賢帝と名高い文帝がため込んだ財産を熱心に蕩尽しました。大運河を開鑿し大庭園や数々の離宮を建築。官僚の服装には羽根飾りを好んだため中国の鳥が減ったとか。しかし、始皇帝も煬帝も「父殺し」の汚名がその贅沢に陰りを添えます。
 貴族の贅沢は、西晋(「三国志」の「魏」を司馬氏が乗っ取って建てた国)から目立つようになります。皇帝の贅沢と貴族の贅沢の大きな違いは、「競争」があることです。各貴族がプライドを賭けて贅沢競争をします。ばかばかしくも真剣な競争(狂騒)が本書で紹介されています。そういった競争の中で、美的なセンスも磨かれていったことではあるでしょうが。科挙によって世襲貴族から官僚に権力が移行した後は、その貴族的なセンスは官僚によって受け継がれることになります。
 中国で商業が本格的に栄え始めたのは、中世の宋の時代頃からです。商人が「力」を誇示するようになったのは明の時代。それが表れているのが、明代の小説『金瓶梅』でしょう。そこでは、主人公の西門慶が、色情狂として“活躍”するだけではなくて、商人としてどんどん成長していく姿が描かれています。そしてそこで描かれるのは“物量作戦”としての贅沢三昧です。とにかく量があれば良い、というコレクションやご馳走攻め。色情狂もまた「女は数さえこなせば良い」という“贅沢”と言えるでしょう。『金瓶梅』はフィクションですが、現実の何かを反映しているはずです。それが清の時代になると、「文化人」としての大商人が登場します。揚州の塩商は、自身が贅沢をするだけではなくて、文化・芸術・学問のパトロンとしても機能していました。ただしこの繁栄は18世紀まででした。
 ここから著者は、歴史的な贅沢は、その王朝が滅亡する直前にそのピークに達する、という“法則”を導き出しています。
 ちょっと毛色が変わっているのは、宦官の贅沢です。子孫が残せない宦官は、金と力に執着する傾向があるようです。それも、国がどうなっても良い、という姿勢で。
 宦官に限りませんが、中国史には「個人的な贅沢で国を傾けた(滅ぼした)」悪人が多数散りばめられています。おっと、国が傾いているからこそ、不都合な現実から目を背けるために最高権力者の地位にふさわしくない人間は贅沢に逃避するのかもしれません。


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