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2015年07月03日07:15

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冤罪のバランス

 冤罪事件では、冤罪の“被害者(冤罪事件で逮捕や服役などひどい目に遭った人)”は「身に覚えがない責任」を問われて刑に服することになります。それに対して“加害者(冤罪事件を引き起こした人たち)”は「自分が問われるべき責任」を問われることはありません。これで「プラスマイナスゼロ」?

【ただいま読書中】『地域のなかの軍隊2 関東 軍都としての帝都』荒川章二 著、 吉川弘文館、2015年、2800円(税別)
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 かつて日本中に「軍都」がありましたが、帝都(東京)はその中でも特別でした。何しろ「帝」が存在する都ですから。他の軍都を圧倒する兵力を集め、さらに近衛兵などの特殊な軍事力も配備されていました。歩兵部隊や演習場の多くは皇居の西側の高台地区に置かれ、その結果麻布・赤坂・四谷さらにはのちに世田谷や目黒などで兵営町が形成され、赤坂や新宿で繁華街・花街が発展しました。工兵は現在の北区あたりに配備されそこは東京府で最大の軍需工業地域に発展します。
 第一次世界大戦後の飛行部隊の設置も関東からでした。陸軍は所沢に、海軍は横須賀についで霞ヶ浦に飛行部隊を置きます。これは第二次世界大戦時に首都を取り囲むように帯状に軍事地帯化が進み、帝都の防空を担いました。
 東京は他の軍都に比較して圧倒的に広い軍用地を確保していました。それは各大名の江戸藩邸用地を召し上げまたは買い取りで確保できたからです。下総台地では、農民私有地の買い取りで大量の演習地が確保され「軍郷」となりました。軍施設の周囲は都市化し、鉄道も施設されます。「軍都」と「軍郷」は密接に関連しつつ形成されていきます。町の小さな本屋でさえ兵隊相手の商売で繁盛していたことを知ると、「軍の経済効果」は絶大だったようです。
 「地方」からやって来た近衛兵は、江戸っ子から見たら「よそ者」「新しい権力者を守るための守備隊」です。エリート意識はありますが、「郷土を守る」意識があったかどうかは不明です。彼らの初の実戦は西南戦争。甚大な損害を出して帰還して10箇月後の1878年8月、近衛兵の反乱事件(竹橋事件)が起きます。死刑53人を含む263人が罰せられた大規模な反乱でした。
 当時、日本軍をめぐるネガティブな問題は、たとえば徴兵忌避、衞戍地での死亡率の高さ(年間1〜2%が死亡していました)、病気(特に脚気)などがありました。士気も低く、そのためか憲兵隊が創設されますが、最初は東京に集中的に配備されました。
 千葉、高崎、横須賀など、軍との関連で発展した都市について次々論文が紹介されます。横須賀は「軍港」としては江戸時代の海防意識の産物で手狭なために新しい鎮守府(呉・佐世保・舞鶴)に“主役”の座を奪われましたが、その代わり首都防空も担当することで新しい地位を得ました。
 かつての日本には「軍都」が満ちあふれていた時代がありました。今私たちがするべきことは、そういった「過去」を「なかったこと」にするのではなくて、否認をせずに過去を見つめてそこから未来を構築することではないか、と私は考えます。そのために必要なのは、見つめるべき「過去」をきちんと確保することでしょうね。


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