ミクシィのコメントの中には、自分の好きな音楽について語る人が多いような気がする。クラシック、ジャズ、ロックとそれぞれ分野は違っても、自分の嗜好にある種の崇高性を認めているところに共通性があるようだ。その分野に興味がない人にとってはなんの感
よく意味がわからない。人権蹂躙と言うより、常識を逸脱している。個人の下着の色について言及するということ自体が、わいせつだと感じる私の常識がおかしいのだろうか?下着の色指定など校則見直しへhttps://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=dia
NHKのEテレで「100分de名著」という番組で「善の研究」が取り上げられていたが、その3回目の放送(10月21日放送)のテーマが「純粋経験と実在」であった。そのビデオを見て、いろいろ思いついたことを述べてみたい。 哲学愛好家の中にはとても奇妙
今日、10月22日は中原中也の命日である。82年前に29歳の若さでこの世を去った天才詩人は悲しい人であった。ある種の傲慢ささえ感じるほど自分の才能を信じている人であったが、世に認められるいとまもない短い人生であったのは残念である。 汚れ
(昨日の記事の続き) 西田自身の述懐によると、「善の研究」における第1編と第2編は書かれた順序は逆であるという。その第2編では、「意識現象が唯一の実在である。」ということがテーマとなっている。この第2編第2章の冒頭の部分を引用してみよう。「少
「個人あって経験あるにあらず,経験あって個人あるのである 。」というのは、「善の研究」における西田幾多郎の一節である。倉田百三はこの言葉に感涙したという。ここで言う「経験」は、日常的な意味の経験よりもっと広義で、感官すなわち眼耳鼻舌身意に
従来の独我論というのは前回記事で取り上げたような、自分以外の人間はすべてゾンビではないかという懐疑が解消できないという、いわば神経症的なものであった。しかし、ウィトゲンシュタインは「論理哲学論考」によって、新たなタイプの独我論を提示してき
前回記事では、他者にも自分と同じような意識があることを前提に間主観性というものが成立するというようなことを述べた。この間主観性というのはとても大切なもので、これがベースとなって客観的世界というものが構成されるのである。当然、客観的世界とい
私は恋人と夕暮れの浜辺を歩いていた。私は「夕焼けがきれいだね。」と言う。彼女は「本当、とても赤くてきれい。」と答える。この時、私と彼女の間には「間主観性が成立している」と言う。間主観性とは、二人はお互いに同じ世界にいて、同じ月を見ているこ
石器時代の人間の脳と現代人の脳にはほとんど違いがないと言われる。つまり、石器時代の人間に教育を施しさえすれば高等数学も理解できるようになる。これはある意味奇妙なことに違いない。マンモスを追う狩猟生活をしていた人類に高等数学を理解するような
(論理哲学論考より)2.0233 同じ論理形式をもつ二つの対象は、それらの外的性質を除けば、ただそれらが異なっているということによってのみ、お互いに区別される。 全く見かけが区別できないリンゴが二つあったとしても、「この」または「あの」と直示するこ