9月1日と2日の備忘録。
毎月朔日はお寺の例大祭。
午前11時5分前、社務所に行って受付を済ませた。その際、おそるおそる「可能であればのお願い」をする。
「本日同時刻、従姉妹のご主人の本葬が横浜で営まれている。祭礼と葬儀は違うが、御祈祷で参加者全員の名と家内安全や身体健全を唱えてくれるので、その後に名を挙げて葬送してもらえないか」
ちょっと返答に迷った末、「聞いてみます」と。
万一のため、亡くなられたご主人の名前と年齢を書いておいた。
それから45分後、彼の名前が読み上げられ、安らかにというようなお言葉を述べられる。
こういう”ついでのお願い”がいいのか悪いのか。機転が利くという意味では、ちょっと小すっからい気もする。そうなんだよ、3人か4人に1人は、仕事でもSNSでも妙に頭が合理的で気の利いた言動や行動をとる。
しかしながら、立派な本堂で送辞をいただけたことでほっとできた。
朝日新聞は毎週土曜日、beという別刷りが朝刊にある。
2面に沢木耕太郎の連載「暦のしずく」があり。昨日、最終回(91回)を迎えた。
最後のわずか3行で、思ってもみなかった嬉しい展開。2年間に亘って主人公・馬場文耕は私の中のヒーローで居続けた。それだけに、文耕の獄門(死罪)はつらかったのだが、その可能性をやんわりと否定するエンディングに救われた。といっても、全否定された訳ではない。
結果を明確にせず読者の判断に委ねる小説というのがたまにある。エンタメでは少ないが、純文学領域に接している小説だと、割と一般的な手法だと言える。
文耕は生きている……。この歓びを誰かと分かち合いたいたくて、昨日、何度となくググった、Twitterでも検索窓に「沢木耕太郎、暦のしずく、最終回」と打ち込んでみたのだが、感想を寄せているひとが異様なほど少ない上、私のように喜び勇んでいる読者はひとりとしていない。というか、そんな感想が聞こえてこない。
かつて平野啓一郎が毎日新聞に連載した「マチネの終わりに」が終わったとき、「マチネロス」という言葉が生まれたくらい、連載終了を悲しむ読者が多かった。(単行本が出てから私は初めて読んだのだが)確かに、心が締めつけられる恋愛小説だったから読者の惹きが強かったのだろうが、「暦ロス」が生まれてもおかしくないのに……。
2日、中近両用眼鏡を買いに、うちから結構離れた大型眼鏡店にクルマで行った。いま一日17時間使っている中近眼鏡は遠くも近くもよく見える。が、レンズに少しずつ傷が付き始め、それに伴って曇ることが増えた。買い替えは贅沢かもしれないが、なにしろ一日中使っているツールゆえ、ベストなツールを使いたい。
ちょっと想定外のお金を使ってしまったが、この先何十年も生きるわけでもなし。本を読んだり、タブレットのように小さいラップトップで動画や映画を快適に見たいがため、買い替えが贅沢でもないだろう。
少しだけ度をゆるめてもらって、より手許がよく見えるようにレンズを選んでもらった。この眼鏡店は、医師による検眼がないと売らないシステムなので、安心度も高い。
私は覚えていなかったのだが、対応していただいた店員さんは以前も私の担当だったそうだ。
テレビニュースで自民党、立憲それぞれの代表選を扱っていた。
自民で言えば、改憲からもっとも遠い候補、これが私の願い。憲法改正ができっこないというのは、政治信条以外でそもそも党内や国内をまとめあげるだけの実力がない、という候補ということだ。その場合、誰が該当する?
立憲の場合、野田のような親自民&親維新ではない候補。しかし、野党なら当たり前の道理なのに、いずれの候補も自民に通じていそうな守旧派ばかりだ。ということは、もう私は、気分的に立憲を突き放しているのだろう。
小説を日常的に読むような政治家はいないもんかね。
朝鮮人虐殺や日中戦争といった暗い歴史を丹念に扱った歴史書をひもとく政治家はいないもんかな。
いささか差別的な見方だが、その人生において哲学書を読んだこともないような政治家が政治の中枢にいて欲しくないんだけど。
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