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2024年08月29日17:07

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私は海をだきしめていたい

 27日火曜日の夕べ、大袈裟に言えば全身全霊を掛けて一枚のはがき書きに向かっていた。
 その1時間ほど前にLINEを見てみると、高校の恩師が青い空の動画を送ってくれていた。前日、恩師が主催する歌の結社誌が届き、ざっと目を通していたのだが、ここ半年、礼状どころか何の反応も見せず、うっちゃっていたのだった。
 前夜、先生の歌をで牛が反芻するがごとく何度も読んだ。小学生が読書感想文を書く、みたいな稚拙さは避けたい。歌誌全体をどう自分が捉えたのか、何が心に残り、何が心に残らなかったのかを数行でまとめ、私という人間の素養がいかほどに劣っているのか優れているのか、ともあれありのままの自分を先生に見せることで安心していただきたい一心。
 
  路地に置く鉢の丈低き合歓の花煙れる如き蘂のさ揺らぐ

 合歓の花を知らない私はネットでその画像を調べる。無数の長い蘂が広がっている。2年ほど前、先生が黄色いビョウヤナギをTwitterで感嘆されていた記憶が甦る。
 しかし、「蘂のさ揺らぐ」の「さ」はどういう意味だろう。古語辞典を開いてみた。おそらくは接尾語の「さ」で、名詞につくと方向性を示すそうだが、この場合は歌語をつくる意図か、動きをより表したいのかのどちらかであろう。
 歌をまったく詠まないことを先生はご存知だから、頓珍漢なことを書き綴ればいい。が、高校では目立つ成績優秀者で、その後も先生の期待を裏切るような方向に進まなかったこともあって、先生は今尚、一定の信頼と親愛の情を示されている。
 重いプレッシャーを感じながら、はがきに一文字一文字書いた。これ以上小さな文字は無理、というくらいの字体と行間(16行)。
 晩ごはんを食べたあと、中央郵便局まで投函しに行った。午後7時までだと当日消印になる。
 50年来。緊張感のない日常を送ってきたので、プレッシャーに弱い気質だと思う。
 しかし、あらゆるしがらみから解放された時から、皮肉なことにプレッシャーを感じる生活になった。

 たとえば昨夜、映画「丘の上の本屋さん」を観たのだが、事件が起こるわけでもないし恋愛映画のような心を右に左に揺さぶる内容ではないから選んだまでだ。3年前、夕刊の映画紹介で取り上げられていて、映画評を読んだときに観たいな、と思った。
 イタリアの田舎町、ヨーロッパらしい古びた雑居ビル。映っている風景も人もきれいだった。
 嫌いな言い回しだが、癒された。スマホもネットも、利得も詐欺もない世界。
 坂口安吾の短篇に「私は海をだきしめていたい」という題名の小説がある。このタイトルも、本文にときどきこそっとしのばせている警句のようなつぶやきも、疲れた私にしっくり来る。
 エンディングの文章。
<私の肉慾も、あの海の暗いうねりにまかれたい。あの波にうたれて、くぐりたいと思った。私は海をだきしめて、私の肉慾がみたされてくればよいと思った。私は肉慾の小ささが悲しかった>
 自堕落な男のエロ話なので、性的な言葉が溢れているのだが、たとえば上記の”肉慾”をトルツメにして読むと、安吾が本当に言いたかったことがくっきりと見えてくる。
 私は海の暗いうねりにまかれたい。
 私は海をだきしめて、私がみたされてくればいい。
 要は、安楽のユートピアを安吾は求めている。重ったるい現実から逃げて逃げて逃げまくりたい、と宣言しているようなものだ。
 
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