mixiユーザー(id:20556102)

2023年08月29日05:46

168 view

酒井佑子の歌(4)

二足もて人はも歩(あり)く秋瑟々ありきて人は命みじかし  (「短歌人」2012年12月号)

・・・「瑟々(しつしつ)」は、「さびしく吹く風の音」(広辞苑)だそうだ。酒井さんの歌から、知らなかった言葉を学ぶことがよくあるのだが、「瑟々」という言葉も僕はこの一首で初めて知った。「秋瑟々」という3句は“投げ込み”という手法だろう(こういうのを“投げ込み”という、ということも、歌会で酒井さんから教わったのだった)。3句はなくても意味は繋がるのだが、そこに「ああ、秋風がさびしく吹くよ・・・」という感慨を投げ込む、のである。「二足もて・・・」から想起されるのは、《哺乳類の最醜のもの二足歩行して美しき奇蹄獣を曳きゆく》(酒井佑子『矩形の空』)である。ちょうど一年前[2011.12.28]「詩客」の「日めくり詩歌」の僕の担当分の最終回にこの《哺乳類の・・・》を引いたのだった(*)。今回の歌では、「命みじかし」という思いが加えられている。哺乳類の最醜のものではありながら、自らもその一員であれば、同類の者への慈しみもおのずと湧いてくる。季節も、ものさびしい秋である。「歩く」を「ありく」と古風に読むのもとてもいい感じだ。
(*)http://shiika.sakura.ne.jp/daily_poem/2011-12-28-4659.html

兄よわが持たざりしはらからなれば兄よ茫々として人を悼むも  (「短歌人」2013年1月号)

・・・ひとつ前の歌は《きのふけふ兄を葬りて人はありと風吹きて遠く近きあづまに》。どなただったかのブログに、酒井さんのお兄さまがなくなられた時の歌、と書かれていたが、それは明らかに読み間違いだと思う。作者の知り人のお兄さまがなくなられて、葬りをされた。われには兄がいないので、兄を思う気持ちが実感としてはよくわからない。しかしその人には深くかなしむ思いがあるだろう。だから、われはそのようにかなしむ人を悼んでいる。そこに、兄を悼む気持ちへの最大限の想像力が働いて、二度の「兄よ」の感嘆表現となったのだろう。つい先日、急逝したある研究会仲間の納骨があって、なくなった仲間をかなしむ気持ちとともに、あるいはそれ以上に、遺された娘さんのお気持ちはいかばかりか、と思ったのだった。そんなことも想起させてくれる歌である。

え行かぬ遠くに薔薇が咲いてゐる 恋ふ 忘る いづれ同じき言葉  (「短歌人」2013年8月号)

・・・作者の年輪が如実に表れた一首と思って読んだ。人生駆け出しの者にはこんなことは絶対に言えない。相応の歳月を生きていても、ぼーっと生きていてはこうは言えない。4句〜5句はそうした作者ならではのコクのある箴言。初句〜3句は付かず離れずのいい感じの隠喩だ。


【最近の日記】
酒井佑子の歌(3)
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1985797682&owner_id=20556102
酒井佑子の歌(2)
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1985789683&owner_id=20556102
酒井佑子の歌(1)
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1985782528&owner_id=20556102
3 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2023年08月>
  12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031