連休4日目。
こどもの日の東京駅は人がすごかった。上野も人が多いだろうと、避けて目黒へ。権之助坂を下ろうとしたら強風で前に進めない。まさにメイストーム。
桜の時期は賑わっただろう目黒川沿は人影もまばら。区民プールは清掃中だった。
美術館はほぼ貸切状態。一点(マグリットの《ジョルジェット》)を除いて全て写真撮影可。
https://mmat.jp/exhibition/archive/2023/20230429-405.html
戦前の日本人画家の欧米への留学中の作品を収集方針に掲げる目黒区美術館は、ベルギーに留学した太田喜二郎の作品を収蔵しています。当時、パリ留学が主流であった中で、少数ですが、太田と同様にベルギー留学した芸術家がいました。画家の児島虎次郎と、彫刻家の武石弘三郎です。太田と児島は、ともにゲントの王立美術学校に通い、ベルギーの印象派の画家、エミール・クラウスからも学びます。武石は、ブリュッセル王立美術学校を優秀な成績で卒業し、帰国後は肖像彫刻家として人気を博しました。戦前の日本で「炭坑夫の彫刻家」として人気のあったベルギーの彫刻家、コンスタンタン・ムーニエの日本への紹介でも知られています。この度は、この3人の作家と彼らに関連するベルギーや日本の作家以外に、当時の印刷物による紹介や展示などにも着目し、戦前の日本におけるベルギー美術の受容について探ります。
第1章 光をえがく:ベルギーの印象派絵画と日本
黒田清輝がフランスから帰国して、東京美術学校に西洋画科ができたのが明治29年。この展覧会はそんな明治中期の西洋画から始まる。
黒田は、久米桂一郎とともにフランスでラファエル・コランに師事し、アカデミックな教育を基礎に印象派的な画風を学び、帰国後は美術団体「白馬会」を結成し、これまで日本になかった外光表現を日本に広め(外光派)、日本の洋画会を牽引した。この辺りは、よく知るところ。
ラファエルコラン《夏の野》
黒田清輝《庭》
その実、日本人が皆パリに留学したわけではない。黒田清輝、久米桂一郎の門下である太田喜二郎や児島虎次郎はベルギーに留学し、ジャン=デルヴァン、エミール・クラウスに師事している。
ジャン=ジョセフ・デルヴァン《連馬》
エミール・クラウス《レイエ川の水飲み場》
太田は、エミール・クラウスのもとで、黒田から学んだ明るい光から、さらに眩く激しい光の表現を学ぶし、児島もまた、フォーヴィズム的な要素すら感じさせる激しい筆致、華やかな色彩で構成されたアバンギャルドな作品を作り上げる。
太田喜二郎《樹陰》
太田喜二郎《雪の朝》
太田喜二郎《麦秋》
児島虎次郎《川辺の風景》
児島虎次郎《和服を着たベルギーの婦人》
児島虎次郎《和服を着たベルギーの少女》
名前は知っていたものの、これまであまり意識していなかったなぁ。児島虎次郎、いい。
そしてさらに興味深かったのは、「印象派」〜特に留学当時最も流行していた点描を主とする「新印象派」を日本人画家たちはどう見ていたか、だ。
黒田や久米は、「印象派的描き方」は「見本の一つとして持ち帰っただけ」で、日本に広めたかったのはあくまでも「アカデミックな外光派」であって「印象派」については否定的だったという。ゆえに、門下の太田もベルギーで学んだ点描で光を描く技法を1917年以降放棄してしまう。
一方、児島は日本の画壇と距離を置いたことで、チューブから直接絵の具を出したり、ナイフで描いたりと、ベルギーで学んだことを土台に日本で更なる発展を試みている。
児島虎次郎《親牛子牛》
児島虎次郎《酒津の農夫》
世界の中で、日本人ほど印象派が好きな国民はいないだろうと今は思えるのに、近代西洋絵画を日本にもたらした中心人物たちが印象派嫌いだったことには改めて驚いたし、面白い話だ。
じゃ、どうして現代日本人は印象派が好きになったのか。
それは、児島虎次郎と大原孫三郎の功績が大きいのだと私は思う。二人は親しく、大原は留学する児島に、日本人の多くに本物の西洋絵画を見せたいと、買い付けを頼んだのだった。その中にモネ《睡蓮》などがある。そうして増やしたコレクションでできたのが、観光スポットとしても人気の大原美術館である。
もちろん、展示では、印象派的な点描技法を採用した日本人画家も取り上げている。
斎藤豊作は明治39年に渡仏、新印象派のマルタンに強く影響を受け、親しい児島のために大原美術館作品収集を手伝った。
斎藤豊作《フランス風景�掘�
斎藤豊作《羊飼い》
吉田苞(しげる)もまた、児島虎三郎の弟分的存在だった。彼の絵もまた強い光を点でとらえている。
吉田苞《朝のマロニヘの道》
吉田苞《初秋》
初めて知る画家だ、この二人はどちらも画壇から距離を置いていたので新印象派的な点描技法を続けられていたのだという。
このように日本では、印象派的な点描技法は定着しなかったが、青木繁、南薫造、萬鉄五郎などは一時的に試みていて、彼らは、黒田らが持ち込んだアカデミックな外光派からさらに先を試み、進んでいる。
この時代の日本西洋画については、サクッと「黒田清輝がラファエル・コランに学んで、日本で外光派を確立した」程度の知識しかなかったなぁと、反省。よい機会だった。
第2章 命をかたどる:ベルギーの彫刻と日本
もともと彫刻分野は知識浅く、近代日本の彫刻界に大いに影響を与えたと言えば、オーギュスト・ロダンしか浮かばないし、その頃の日本人彫刻家と言えば、先日近美の「重要文化財の秘密」展でみた新海竹太郎、朝倉文夫、萩原守衛あたりか?とおぼつかない。
確かにロダンは近代日本に大きな影響を与えたが、ベルギー彫刻家コンスタンタン・ムーニエもまた明治末期から大正期にかけてロダンに肩を並べるくらいに名が知れ渡っていたという。
ムーニエは、炭坑夫をはじめとする労働者を主題にし、労働者の精神を美に昇華し力強いリアリズムで表現した点で、多くの作家に影響を与え高く評価されたが、ロダンほどには定着しなかった。社会運動の高まりと衰退に影響しているのだろう。
コンスタンタン・ムーニエ《坑夫たち》
コンスタンタン・ムーニエ《炭鉱夫の倅》
コンスタンタン・ムーニエ《攪錬工》
藤井浩祐《トロを待つ坑婦》
吉田三郎《或る坑夫》
第3章 伝える・もたらす:ベルギー美術の紹介
ベルギーの近代美術は、児島虎三郎、太田喜二郎、武石弘三郎らの作品を通して紹介されただけでなく、メディアでの紹介、あるいは実物の作品展示や所蔵によって日本にもたらされた。それは、友好国として第一次大戦、関東大震災それぞれの復興のチャリティでもなされたし、シュルレアリスムの到来においても、瀧口修造がルネ・マグリットなどの著作を翻訳、解説することによって日本に持ち込まれ、美術界にも大きな影響を与えた。
フランソワ・パイク《室内風景》
フランク・ブラングィン《パンを焼く男たち》
ブラングィンといえば、西洋美術館の基礎コレクションを築いた松方幸次郎のコレクション収集に協力し、松方が構想した「共楽美術館」の建築デザインもした人だ。
フェリシアン・ロップス《スフィンクス》
ルネ・マグリット《再開》
太田喜二郎、児島虎次郎の作品をまとまってみる良い機会だったし、明治中期から大正期の日本近代洋画界を知るいい展覧会だった。空いているのが勿体無い。
なお、唯一撮影不可だったマグリット《ジョルジェット》は姫路市立美術館所蔵のもの、なぜ不可なんだろう?
アルバムあります。詳しく見たい人はこちらをどうぞ。
https://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000120778635&owner_id=2083345
6月18日まで
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