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2021年09月01日12:55

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本棚413『深夜特急1 香港·マカオ』沢木耕太郎(新潮文庫)

 「〈さて、これからどうしよう···〉 そう思った瞬間、ふっと体が軽くなったような気がした。 今日一日、予定は一切なかった。せねばならぬ仕事もなければ、人に会う約束もない。すべてが自由だった。そのことは妙に手応えのない頼りなさを感じさせなくもなかったが、それ以上に、自分が縛られている何かから解き放たれていくという快感の方が強かった。今日だけでなく、これから毎日、朝起きれば、さてこれからどうしよう、と考えて決めることができるのだ。それだけでも旅に出てきた甲斐があるように思えた。」

 乗り合いバスでユーラシア大陸を横断した若き日の自身の旅を下敷きにした、沢木耕太郎の『深夜特急』は、何度読み返してもそれぞれの土地の空気や、異文化に触れ合うことの感興が鮮明に伝わってきて、頁を繰る手が止まらなくなる。

 全六巻の始まりとなる本書の舞台は香港とマカオ。電球の柔らかな光に包まれて果てしなく続く夜店の通りからは、香港の街のむっとした熱気と躍動が感じられ、林立する雑居ビルの狭間にあるおんぼろホテルから垣間見える香港の市井の暮らしからは、香港の人びとの息遣いが感じられる。

 本書の後半、マカオでカジノに魅惑にはまり、その天国と地獄を経験する場面は、巧みに心理や読みを描いており、一気に読ませる。このような熱い「動」の場面もあれば、旅の自由や幸福を穏やかに噛みしめるような、涼やかな「静」の場面もある。その絶妙の配分が心地よい。
 ガイドブックを持たない、行き当たりばったりの旅。そこには偶然の人との出会い、風景への出会いがある。観光名所はほとんど現れず、お金もない旅であるけれど、無限の時間と自由の中にある若き日の一時だけ味わえる「豪奢」な旅である。
 著者がこの旅に出たのは26歳の時。学生の頃に本書を読んで、今はもうその年齢を超えて久しいが、次の「六十セントの豪華な航海」の文章などを読むと、今も同じように胸の中を清々しい風が吹き抜けてゆく。

「人が狭い空間に密集し、叫び、笑い、泣き、食べ、飲み、そこで生じた熱が湯気を立てて天空に立ち昇っていくかのような喧噪の中にある香港で、この海上のフェリーにだけは不思議な静謐さがある。···十セントの料金を払い、入口のアイスクリーム屋で五十セントのソフト·アイスクリームを買って船に乗る。木のベンチに坐り、涼やかな風に吹かれながら、アイスクリームをなめる。対岸の光景はいつ見ても美しく、飽きることがない。···このゆったりした気分を何にたとえられるだろう。払っている金はたったの六十セント。しかし、それ以上いくら金を積んだとしても、この心地よさ以上のものが手に入るわけでもない。六十セントさえあれば、王侯でも物乞いでも等しくこの豪華な航海を味わうことができるのだ。」
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