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2021年08月22日21:14

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本棚410『さぶ』山本周五郎(新潮文庫)

 「そう呟いているうちに、栄二は自分の眼の裏が熱くなり、涙があふれ出てくるのを感じた。誰一人よせつけず、世間もあらゆる人間も敵だとおもいきって、固い殻の中に閉じこもっている自分が、急に自分で哀れになったのである。ーほかの人足たちはもう寝床にはいっていて、中には鼾をかいている者もあった。その鼾の声を聞いていると、この広い世間に自分だけがたった一人でとり残されたような、息苦しい孤独感におそわれ、栄二はけんめいに嗚咽をこらえながら、着たままで夜具の中へもぐりこんだ。」

 先日、瀬尾まいこさんの『図書館の神様』を読んだ時に、山本周五郎の『さぶ』の物語の主人公は誰かという議論をする場面が印象に残り、本書を手に取った。

 男前で腕のいい表具職人の栄二は、道具袋の中に金襴の切を入れられ、無実の罪に陥れられる。自暴自棄になった栄二は人足寄場に移され、人を、世の中を恨む。打ちのめされた栄二の心理描写は胸を抉るような激しさを持っている。
 栄二と同じ店で働いていて、兄弟のように仲の良かった「さぶ」。周囲からのろまでぐずと言われるさぶは、はじめは栄二に拒まれるものの、寄場の栄二のもとに足繁く通い続ける。また、栄二は寄場の人びととも少しずつ心の通い合いが生まれ、彼らもまた真面目にこつこつと生きていたが、世間による非道の目に遭って来たことを知る。凍りついていた栄二の心が、ゆるやかに溶けていく。

 この作品は誰が主人公か。人足寄場での様々な境遇の人びととの出会いを通じた栄二の人間としての成長が確かにストーリーの中心ではある。しかし、自棄になっていた栄二を、非情な世の中であるものの、それに繋ぎ止めていたのは、来る日も差し入れを持ってくるさぶの尽きることの無い優しさや、栄二に想いを寄せるおすえの愛情のような、彼の周りの人たちの存在であった。栄二の再生と成長の背後には、倒れてしまいそうな彼の心の支えとなる「さぶ」のような存在が不可欠であった。「さぶ」に象徴される、この世界における目立たぬが優しさに溢れた無数の人びとを、著者は敬意とともに、表題に据えたかったのではないだろうか。

 本の裏表紙に書かれている「大丈夫。独りじゃないよ。」という言葉が、この大いなる優しさに包まれた物語の全てを表している。人は人の優しさにより救われる。栄二は人足寄場の護岸工事で大事故に巻き込まれた際、周りの人びとが懸命に栄二を救おうとする姿を目の当たりにする。事故の直後の場面、本書の263頁を読んだ時、なぜ『図書館の神様』で『さぶ』が取り上げられたのが分かった気がした。『図書館の神様』の主人公清と『さぶ』の栄二とがシンクロして見えた。もくせいの花の香が匂う秋の爽やかな風ーその風は前からそこに吹いていた。その香を感じ取れるかどうかは、自分の心持ち、見方次第であった。
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