夢の世界と量子コンピューター
人が寝て見る夢のこと。人は、目も使わず、道具も使わないで、夢を見、体験し、思い、行動している。ただ、夢には、いくつかの原則のようなものがあって、人は、夢の中で、どんな非合理的な事象が起こっても、これは夢なのだ、とは思わない。あらゆるファンタジーな出来事を現実だと受け入れて行動する。空を飛ぶ夢とか、崖から落ちる夢は、有名だが、大人になると、飛ぶ高さが、どんどん低くなり、ついには、地面すれすれを這うように飛ぶようになる。それでも、ちゃんと体は浮いていて、飛んでいると認識するようだ。また、どこでもドア現象も、夢では頻繁に起こる。急激な場面展開だ。知っている場所や部屋、家の中にいたとする。しかし、ドアを開けたり、部屋を出ると、全く別のところへ繋がっている。まるで、SFのテレポーテーションのように、どんどん、どこかへ移動する。漫画や、SFなどのフィクションには、夢で見たような光景が多く登場するが、おそらく作者が夢で見た情景を作品に取り入れているではないかと思う。ハリーポッターの駅のホームで、壁に向かって突進するのも、どこでもドア現象の一つだろう。物語では、壁への突進をためらうが、夢の中では、おそらく全くためらいはなく、それが当然のように壁に突進していくのだろうと思う。人は、夢の世界は、全くのフィクションの世界、非現実の世界、超現実の世界だと認識しているが、果たして、そうだろうか。夢を精神世界と捉える人は多いかと思うが、精神世界と夢とは、似て非なるものな感覚を持っている。夢は、小さな子供でも見るし、どうも動物も夢を見ているようなのだ。鬼滅の刃の無限列車編では、夢を操る鬼が敵として登場するが、キャラ達の夢が興味深い。ただ、鬼のねず子は、夢を見なかった。何らかの意味があるのかもしれないが、いつも葛籠の中で寝ているので、さらに鬼によって眠らされることもなかったのかもしれない。ねず子が、葛籠に入るシーンも面白い。体が小さくなって小さな葛籠にスポンと入ってしまう。物語の中の夢なので、どちらかというと夢というよりは、精神世界の表現に近かったように思うが、精神世界と夢とがシンクロしているように感じることも多いだろう。自分は、夢は、別の次元の現実ではないか、と考えている。蜘蛛ですがなにか、のアニメは、パラレルワールドで描かれていた。物語の実態としてではなく表現としてのパラレルだ。時間が15年前に戻ったり進んだり、時間の違ういくつかの物語が並行して進むように描かれていた。蜘蛛子自身も並列意思を持っていたので、作者は、時間的、空間的な並列同時存在を意識していたのではないかと推察する。夢は、自分が中心の一人称で見ることが多い。自分が何かをやっている、何かを見ている、という視点で夢は進んでいく。夢で、視点が飛ぶかどうかは、確認していないのだが、空を飛ぶ夢は、鳥の視点で世界を見ている、と解釈してもいいかもしれない。崖から飛び降りるシーンも、鳥が崖から飛び立つ瞬間でもあるだろう。アニメは、どこにカメラを置いても自由だ。実際のカメラを使うわけではないので、どの視点から見た世界を描いてもアニメは成り立つ。弾丸にカメラを乗せてもOKだろう。フィクションと夢との違いは、アニメのこの辺りの意図的な表現が、夢では、ほぼ発現しないところではないだろうか。夢が、夢であるための重要なファクターは、それを、現実だと認識するところだ。フィクションは、あくまでも仮想の物語で、非現実だという認識の上に成り立っている。だが、夢は、何が起ころうとも、夢を見ている時点では、現実だと認識してしまう。だからこそ、あまりに受け入れがたい悪夢に対して、人は夢から覚めるという安全弁が作用するのだろう。夢は、フィクションではない、と断定してしまうのは、危険なようにも感じる。フィクションだとしてしまった方が、夢を理解しやすいからだ。このように、受け入れがたい現実、つまり、夢のような現実が、量子コンピューターなのだ。量子コンピューターは、バラ色の未来を示す夢のような存在ではない。量子コンピューターが実在し、それが実用化されることは、夢を、もう一つの現実だと認めるのと同じぐらい、受け入れがたい出来事ではないかと思う。量子の持つ、もつれや重ね合わせは、受け入れがたい事実なのだ。あのアインシュタインも、強烈なアンチ量子派の1人だったという。アインシュタインにとって量子のもつれや重ね合わせは、フィクションの世界の物語でしかなかったようだ。重ね合わせは、ある物が、同時に2箇所に存在し得る、という事象。もつれは、量子が示す、古典物理を超える事象全般を示すようだ。古典物理を現実世界としたら、量子物理は夢の世界、とも言えるかもしれない。夢でしかありえないような事象が現実に起こるのが量子の世界だ。それは、夢を現実の並列世界、つまり、夢も現実の世界の一部、と認識するぐらいの葛藤を生む。物理の世界では、量子力学は常識になっているのだが、古典力学に囚われている世界では、受け入れがたい、理解不能な事象を多く含んでいる。量子コンピューターは、超速いコンピューターっと、喜ぶのは早計かもしれない。世界の常識は、量子コンピューターの実用と共に崩れ去ってしまうのだ。それは、まさに、蜘蛛ですがなにかの、禁忌を知ってしまった者たちのように、認識の崩壊が起こってしまう。古典物理では、説明のできない世界が、現実の世界にはあることを知り、量子物理を加えた目で世の中を認識する。2番目じゃダメなんですか? なんて頓珍漢なことを言っているような場合ではないのですよ。そもそも、古典物理で作られた今のコンピューターは、オールドスタイルになってしまうのですから。しかし、量子に踏み込むことは、禁忌をカンストするがごとくとは言い得て妙かも。余計分からないか。さあ、量子に踏み込むのです、さすれば、常識の崩壊を体験できるでしょう。そして、頭痛に悩まされるのです。だいたい、アインシュタインが理解できなかった物理を一般人が理解できるわけもない。わけがないのです。
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