中手山貝塚に関する情報は中手山神明社の拝殿前脇に掲示された
『中手山神明社由緒書』内に文章があるのみで、
記念碑などの現物は中手山神明社境内には一切存在していない。
社号標は社頭とは思えない場所にあり、鳥居も丘陵上の端にあり、
鳥居の前は潅木の茂った急な下りの土手になっている。
鳥居の外側(南側)から社内を見ると、
正面20mあまり先に拝殿が位置している。
鳥居のすぐ奥、右脇に位置するブルーシートは土俵のカバーだと思われる。
社号標脇から鳥居の下側(南側)に下りて行くスロープがあるので、
下りて行ってみると、かつての表参道と思われる通路は
(写真中)のようになっている。
(写真中)の中央を上る坂の正面の潅木の向こう側に
こちらを向いた鳥居は位置している。
この上り坂の右手は畑、左手は下りの土手で、
表参道の入り口は、その土手の下にあったようだ。
おそらく、かつては土手を上がる階段が設置され、
スロープを使わず
直接、鳥居の前まで上がれるようになっていたのだと思われる。
GoogleMapのペグマンでかつての社頭を探してみると、
社地の南西の角に縁石を設けた入り口があるのが分かった(写真中)。
(写真中)の中央の藪の上が境内だ。
丘陵上の境内に戻って拝殿に向かうと、拝殿の左手前に
鉄製のA字型の添え棒2基で枝を支えられた銀杏の神木が枝を広げ、
拝殿の右手(東側)にはエノキの巨木が幹と枝をくねらせている。
『中手山神明社由緒書』には以下のようにある。
「境内には市内有数の 榧(※かや)銀杏榎木(※えのき)等の古木がある」
※=AYU注
拝殿は本瓦葺切妻造平入で木部は全て、赤墨に染められ、
拝殿の正面は胸の高さから上に
ガラス格子の付いた窓が帯状に巡らされている。
拝殿前で参拝したが、
祭神は「大日孁貴尊(おおひるめしらのみこと:天照大神)」とあり、
「由緒」には以下のようにある。
「創立は古老の言い伝えによれば第百五代後奈良天皇の天文辰元年(西暦1532年)その後に磯村与左衛門なるものが勧請し後に代々その子孫が守り天明二寅年(1782)末孫庄屋善左衛門(与左衛門の子孫)の亡き後一子(同じく善左衛門と云う)九才のの幼年の為神
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